概要

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禁書として「禁止する」とは、本自体を発禁とするだけでなく、思想や言論の自由を封じ込めて禁ずることです。

日本統治時代から戒厳令の解除前後まで、台湾の人々は何十年にもわたって思想と言論の統制を受けてきました。植民地統治や戒厳令時代において、権力者は検閲制度によって一冊の本の運命を決めます。表向きは「思想の毒」の蔓延を取り締まることですが、実際の目的は政権を強化するために国民をコントロールしやすくすることにありました。検閲制度の影響を受けるのは出版されていた本だけではありません。作家は一字一句を「熟慮」して執筆しなければならず、完成した作品を自己検閲し、封印する場合もありました。

権威主義体制において、異論を唱えるさまざまな声はかき消され、国民の自由は抑圧されていました。しかし、全体主義体制にあっても自由な思想を封じ込めることはできませんでした。

本展のテーマは「封鎖中の文壇」です。一文字で生死が決まる殺伐とした時代の中での自由と民主主義の貴重な価値を実感いただけるでしょう。

図説1:展示会の実際の様子

図説2:龍瑛宗『蓮霧の庭』
第二次世界大戦中、龍瑛宗は出版済みの小説を収録した『蓮霧の庭』という小説集を出版する予定でした。しかし出版検閲時、政府から「協力聖戦」するような作品を収録するように勧告されました。そこで、龍瑛宗は『若い海』を『夕影』に差し替えましたが、審査は通過しませんでした。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説3:AR写真

はじめに:無数の検閲方法

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政権への「危害」は一律禁止!

権威主義体制では書籍や雑誌を検閲する法制度が定められ、市場に出回っている禁書を回収する人員が派遣されました。押収された書籍や雑誌のほとんどは差押えまたは廃棄され、一般人の手に届かなくなりました。さらに権力者は販売、購入、閲覧した者も厳しく罰しました。本をこっそり読んだり読書会に参加したりするだけで、投獄されたり殺害されたりすることもありました。全体主義体制の監視と極度の緊張感の中、文学作品は厳しく規制されました。

一字一句が生死に関わるため、作家は左翼思想の「レッドライン」を越えることを恐れたほか、さまざまな制限や自己検閲により、創造性が大きく損なわれました。検閲制度によりすべての書籍の「正当性」が疑われ、国民の心に憶測や警戒心が生まれました。

図説1:展示会の実際の様子

図説2:「台湾省戒厳期間新聞雑誌図書管理弁法」
1949年5月、戒厳令が公布・施行されると、警備総部により「台湾省戒厳期間新聞雑誌図書管理弁法」が定められ、社会を混乱させて三民主義に背き政府や国民の感情を刺激する言論に対する審査と処罰が行われるようになりました。戒厳令の解除後、この規制は失効しました。(提供:国家文書アーカイブ)

図説3:『検閲図書目録』
台湾省政府と警備総司令部が発行した禁書目録には、検閲の法的根拠が明記されています。書名の文字数で索引付けされ、書籍や雑誌の基本情報と検閲番号が記載されています。『検閲図書目録』は数年ごとに更新されました。これは1966年10月版です。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:AR写真

名前が運命を決める

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名前が一冊の本の運命を決めるとは?

戒厳令が敷かれるなか、国民党政府は効果的に思想や言論を統制して政府の権威に挑戦する言論や書籍を封じ込めるため、「検肅匪諜条例(スパイ検挙粛清条例)」「出版法施行細則」など、多くの審査法令を次々に制定しました。書籍はさまざまな理由で検閲され、その中で最も有名なのが「紅線(レッドライン)」です。「左翼」または中国共産党に関連する本で、著者や翻訳者が中国に滞在している場合や中国と関係のある台湾の出版社の場合は、ほとんどが「匪賊側」とみなされて検閲を受けました。

1945年の戦後初期、台湾では中国語学習が盛んになって中国語の書籍が不足し、1930年代の中国人作家による数多くの作品が、言語学習の最適な教材として使用されました。しかし、「戒厳法」の公布と国民政府の台湾・澎湖諸島への撤退に伴い、両岸分治の対立構造が形成され、これらの作家や本も検閲対象になりました。出版社は市場の需要に応えながらも、政府による摘発や検閲から逃れるため、書名や著者名を頻繁に変える必要があり、出版市場の後期では「禁止されるほど売れる」という特殊な現象が発生しました。

図説1:展示会の実際の様子

図説2:曹禺訳『柔蜜歐與幽麗葉(ロミオとジュリエット)』
シェイクスピアによる有名な戯曲で、台湾では一般に『羅蜜歐與茱麗葉』と訳されています。翻訳者の曹禺は1949年に中国に留まったため、国民政府により「匪賊側」とされ、翻訳したシェイクスピアの戯曲もあわせて禁書とされました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説3:馬彦祥訳『没有女人的男人(女のいない男たち)』
ヘミングウェイの初期の代表作を集めたもので、左翼的な思想は一切含んでいないものの、訳者の馬彦祥が中国共産党員だったため、検閲を受けました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:『中国文学発達史』
作者の劉大杰は1949年以降中国に留まったため、国民政府に「匪賊側の作家」と見なされ、検閲を受けました。本書は大学の中国語学科において重要な教科書です。需要が高く、出版社は政府の検閲を逃れるため、書名を『中国文学発達史』に変えたり、著者名を「本社」に変えたりしました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説5:呉明実訳『ウォールデン 森の生活』
アメリカ人作家D.H.ソローの作品です。訳者として記載されている呉明実は中国語で「無名氏」と発音が似ています。実際の訳者は徐遅ですが、1949年に中国に留まったため、国民政府に「匪賊側」と見なされ、彼の作品と翻訳はすべて検閲を受けました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説6:名前の変更に関する新聞の切り抜き
この2つの報道から、出版社は高まる需要の中、検閲の危険を冒したうえで禁書の名前を変更して販売していることがわかります。
1、『正気中華報』1963.09.16
2、『台湾民声日報』1971.08.11
(提供:国立公共情報図書館 デジタルアーカイブ)

政府により定義される文章の形式

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1930年代後期、「南進政策」を進める日本政府にとって台湾の位置が戦略的に重要となり、台湾人に対する皇民化運動に伴い、中国語の緊縮、台湾演劇の禁止、台湾語放送の禁止、改姓名、神社への参拝などを義務付けました。戦後になると国民政府により、「理想的」な国民を作り出すための台湾の「脱日本化、再中国化」が強行されました。

言語のほか、文学や歌謡も政府の検閲対象になりました。権威主義体制では民衆の思想をコントロールするため、国民の表現方法が厳しく制限されました。この政策にて国民は単一言語の使用を強制されたほか、文学作品の形式や歌謡もさまざまな制限を受けました。例えば「暴雨専案」では、武侠小説に対する検閲が行われました。小説には、現実離れした架空の世界で権力に抵抗するエピソードがしばしば登場するため、当局から忌み嫌われていました。

また、政府は歌が広まる速さと範囲の広さも重視し、見逃しませんでした。歌や本の禁止は、戒厳令時代の「文字の獄」における最大の被害だったともいえるでしょう。

図説1:AR写真、展示会の実際の様子:放送禁止のヒット曲
異郷で懸命に働きながら母親を恋しがる気持ちを歌った台湾語の歌「媽媽請妳也保重(母さんもお元気で)」は、当局により「悲しく、志を失う」という理由で禁止されました。悲しすぎる歌は歌えず、楽しすぎる歌も同様に許されませんでした。「杯底不可飼金魚(杯に金魚を飼うなかれ)」は乾杯を促す歌詞であることから、当局により「快楽のための飲酒は心を腐敗させる」という理由で禁止されました。戒厳令が解除されてから、歌の審査は徐々に緩和されていきました。本エリアでは、初めて禁止された歌として知られている1934年の青春美の歌「街頭的流浪(道端のさすらい者)」など、4曲を紹介しています。戦後に禁止された歌として「何日君再来(いつの日君帰る)」「補破網(破れた網を繕う)」「橄欖樹(オリーブの木)」などをピックアップしています。

図説2:『台湾教会公報』1049、1050期合併号
国民政府が推進する国語運動を受け、教会公報社も対応策をとり、白話字(教会ローマ字による台湾語の表記)版の『台湾教会公報』に中国語版の特集欄『瀛光』を掲載するなどしました。『台湾教会公報』の1049および1050期は、1969年に白話字(教会ローマ字)で発行された最後の号になりました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説3:司馬翎『独孤九剣』
原作は金庸の『笑傲江湖』です。金庸は「暴雨専案」のトップに列記されていたため、出版社は別の武侠小説家である司馬翎に依頼し著者を装ってもらいました。独孤九剣は『笑傲江湖』の主人公である令狐沖が習得した必殺技で、原作との関連性が示唆されています。(提供:国立台湾図書館)

図説4:武侠事件に関する報道
武侠小説は台湾で発展してブームになり、武侠小説に影響を受けた若者達が仙術を求めて山で修行するという出来事がしばしば新聞やメディアで報道され、社会問題となっていることが示されています。
1.『民声日報』1965.02.17。
2.『民声日報』1962.05.31。
3.『民声日報』1959.03.07。
4.『民声日報』1965.06.15。
(提供:国立公共情報図書館 デジタルアーカイブ)

図説5:『保衛大台湾』
孫陵の詩で、もともとは1949年に『民族報』で発表されました。その後、李中和が曲をつけ、「反共文芸の第一声」と称賛されました。歌になった後、「保衛大台湾(台湾を防衛せよ)」と「包囲打台湾(台湾を包囲して攻撃せよ)」の中国語の発音が似ていたため、政府により禁止されました。『反共抗俄歌一百首』に収録されています。(提供:国立台湾図書館)

図説6:AR写真

思想の毒は政府が「浄化」

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戒厳令時代には本の内容が検閲されました。1954年の「文化清潔運動」を大きな起点に、「中国文芸協会」が始めた運動を通じて政党、政府、警察はさまざまなリソースを使い、主に「赤」「黄」「黒」3色の作品を厳しく取り締まりました。

「赤」は共産主義を象徴し、「赤の思想」を提唱する作家の作品はすべて検閲を受けました。「黄」はわいせつな内容の作品を指し、「傷風敗俗(風俗を乱して社会に悪影響を与える)」の描写があれば、検閲リストに記載されました。「黒」は政治の内情の報道を指し、党や政府のイメージを損なう作品は取り締まりの対象となりました。

「文化清潔運動」は表向きには「有害な作品」を取り締まることでしたが、実際は文壇と当局の意見の不一致を排除するものでした。関連の取り締まりと検閲は数十年にわたって続き、作家も出版社も理由もなく処罰されることを非常に恐れていました。

図説1:霧。Mist/沈昌明Shen Chang-ming
霧、それは愛のように
山の峰で遊びながら 驚きに満ちた美をもたらしてくれる
──タゴール詩集『飛鳥集(迷い鳥たち)』鄭振鐸訳。

本展は芸術家の沈昌明を招き、タゴールの詩と現代の量子アート作品を組み合わせ、独自の技法でキャンバスにさまざまなテクスチャを作り出しています。キャンバスいっぱいの細かい砂、底に刻まれた隷書体、左右に移動すると光の屈折で見える隠された文字で当時の隠された文学作品が表現されています。『飛鳥集(迷い鳥たち)』の原作はイギリス領インド帝国の詩人タゴールの詩集『Stray Birds』ですが、翻訳者の鄭振鐸が国民政府の定義により「匪賊側の作家」とされていたことから、『飛鳥集』も禁書になりました。1950年代、市場には糜文開の翻訳版である『漂鳥集』も流通していましたが、こちらは検閲を受けませんでした。現代映画の『返校』の中に登場する、タゴールの詩集を読むと災難に見舞われるシーンは、鄭振鐸の翻訳に由来するもので、タゴールの詩自体がタブーを犯しているわけではありません。私たちは映画を見ながら、本を禁止した側のように誤って人を殺してしまわないよう、本当のタブーについて理解する必要があります。

図説2:『阿Q正伝』
魯迅は中国共産党に称賛されており、作品には時局や政権の批判が含まれていたことから、戒厳令下において魯迅の作品はすぐに禁書になりました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説3:『心鎖』
不倫や近親相姦などの問題を含む内容だったため、1962年の出版直後に検閲の対象になりました。郭良蕙は中国文芸協会の作家グループからも批判され、最終的に除名されました。1986年に再出版された際も検閲対象になり、1988年にやっと解禁されました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:『査夫人』
原題は『チャタレイ夫人の恋人』で、大胆な性描写や不倫の描写があったため禁書とされました。審査から逃れるため、出版社は書名を短縮して『査夫人』としましたが、それでも検閲の対象となりました。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説5:『鈕司』第1期
1952年に創刊され、主な内容は政治の内情の暴露、男女の愛で、当時政府が推進していた反共文芸の路線と相反していました。「文化清潔運動」の中、中国文芸協会によって「黒色の出版物」と名指しされ、発行禁止処分を受けました。(提供:応鳳凰)

おわりに:後戻りすることなかれ

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影片連結

戒厳令が解除され、国民が不公平かつ道義に反する法令と戦い続けるなか、禁書という言葉は徐々に過去の歴史となり、人々はついに自由に書いたり議論したりできるようになりました。

本を数冊読んだだけで尋問を受け、刑を科された葉石涛のような運命をたどる者はいなくなりました。印刷済みの出版物もまた、『龍安文芸』のように政治事件への関与を理由に廃棄される心配もなくなりました。

日本語や白話字(教会ローマ字)で書かれた本は図書館で展示されたり書店で販売されたりするようになり、重要文化財として博物館に収蔵されているものもあります。

禁書の影響は、それほど大きくなかったのでしょうか?

1949年の戒厳令から1999年に出版法が廃止されるまで、検閲は半世紀にわたり実施されてきました。現在の民主主義社会において、歴史の遺物として当時をしのぶだけでいいのでしょうか?

いいえ。何を失っているかわからない時こそ、影響がさらに巨大になることがあります。危険を冒してでも保存する者がいなければ、検閲や禁書の知識は歴史の流れの中で失われてしまうかもしれません。何を失うのかを知らなければ、貴重なものを守ることもできません。

禁書の歴史を理解するには、押収された本を「解禁」するだけでなく、思考の束縛を解くために、過去の経験を伝える必要があります。私たちはそのことを常に心に留めながら努力と実践を続け、後戻りしてはならないのです。

図説1:『返校』映画予告編
『返校』は同名のコンピュータゲームを実写化したもので、白色テロ時代の台湾の学校が舞台となっています。教師と生徒が密かに読書会を組織し、権力者から迫害される物語です。映画にはたくさんの本が登場しますが、どれも戒厳令時代に危険思想として禁書となった本です。
公開/2019年、監督/徐漢強、製作/影一製作所股份有限公司、配給/ワーナー・ブラザース。

図説2:展示会の実際の様子

図説3:『封鎖中の文壇』ボードゲーム
国立台湾文学館による製作で、白色テロ時代(1949~1992)の文学シーンをテーマにした教育用のボードゲームです。台湾の文学史とカードを組み合わせたゲームで、遊びながらさまざまな時期の文壇で活躍した作家や作品、さらには検閲を受けた本を知ることができます。白色テロ時代の歴史的背景とその影響を深く理解できます。詳細はこちら:https://gov.tw/msC

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