展示発案

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モダニズムは、世界の近代発展史において重要な歴史的現象であり、その内容も実に豊かです。国立台湾文学館では、モダニズムが西洋世界、特にアメリカ文学に与えた影響を明確にするため、「才能あふれる作家たち——アメリカと台湾のモダニズム文学」特別展を企画しました。ここでは、F・スコット・フィッツジェラルド(F. Scott Fitzgerald,1896-1940)、ウィリアム・フォークナー(William Faulkner,1897-1962)、そしてアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway,1899-1961)といったアメリカ・モダニズム文学を代表する3人の人物に焦点を当てていきます。

価値観や信条が世界的に、そして分野横断的に変化していた時期、台湾もそれに無関係だったわけではありません。日本統治時代の1920年代にモダニズム思想が導入されて以来、モダニズムは台湾の知識層や文学界に影響を与えてきました。世界が二つに分断された冷戦期、戒厳令下の台湾社会には様々な軍事・経済援助とともにアメリカのモダニズムが入り込み、抑圧や不安感の強い時代において、戦後の台湾社会と文芸思潮を近代化の方向へと発展させました。本展では、アメリカ合衆国情報サービス「USIS (United States Information Service) 」の翻訳・紹介を牽引役として、ヘミングウェイ、フォークナー、フィッツジェラルドなど当時の作家の作品を取り上げ、1920年代から1950年代までのアメリカ・モダニズム文学の一面を紹介するとともに、台湾のモダニズム作品や歴史的資料を余すところなく示すことで、台湾におけるモダニズムが、外部からの文化の移入であると同時に、台湾独自の強い革新の精神を持つ点についても明らかにしていきます。これらの特徴とは、才能あふれる台湾の作家たちが西洋のモダニズムの技法と意識を学ぶ過程で生み出した、輝かしい成果そのものなのです。

図説1:展示会の実際の様子

モダニズムとは何か?

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モダニズムとは何か?端的に言うと、伝統から精神的に脱却し、前衛性、実験性、反抗性を追求する、西洋世界を起源とした広範な思潮のことです。モダニズムは、国際的な運動として様々な国で異なる時期にピークを迎えましたが、そのいずれもが都市環境と大きく関係しています。20世紀の都市文明は、モダニズムと密接な関係にあり、モダニズムの繁栄に貢献する文学的環境を提供した一方で、モダニズムの小説家たちが小説の主人公たちの内面世界に没頭することを促したのです。

モダニズムのもう一つの特徴は、文学を豊かにした、分野横断的な相互作用です。例えば、アメリカの作家ドス・パソスは、映画や写真技術の影響を受けて、「カメラ・アイ」と呼ばれる手法で語るスタイルを試み始めました。また、ヘミングウェイの小説技法は、前述の表現主義・キュビズムの作家、ピカソから深い影響を受けており、印象派のフランス人画家セザンヌからも多くの刺激を受けたことを認めています。

図説1、2:展示会の実際の様子

戦争の時代:希望の幻滅と信仰の喪失

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人生の悲喜を経験した——フィッツジェラルド
フィッツジェラルドは、プロの作家になる前にすでに多くの作品を書いていました。彼の一冊目の小説『楽園のこちら側』は、非常に性急な状況下で書かれたものでした。当時は、陸軍新兵訓練場での予備将校訓練中で、いつヨーロッパの戦場に駆り出されてもおかしくない状況だった彼は、作品が世に残らないまま死んでしまうことを恐れる一方で、南部の名家の娘、ゼルダと恋に落ち、彼女との結婚を強く望んでいました。まずは自身の著作で彼女を養えることを証明しなければと考えたのち、訓練の合間を縫って必死に小説を書くことになったのです。

アメリカ南部文学の巨人——フォークナー
フォークナーはアメリカ南部文学において重要な作家です。彼の執筆活動は常に、モダニズムの「普遍性」と南部文学の「地域性」の両方によって特徴づけられており、作品の中で描かれる登場人物たちの遭遇が人間の日常生活のあり方を反映している一方で、彼自身、アメリカ南部の歴史や文化、人種対立、男女差別、南部人に対する偏見などのテーマに関心を寄せていました。このことから、どの小説の中にも当時のアメリカの社会状況を伝える貴重な記録が残されています。

フォークナーは生涯世界中を旅し、多くの場所を訪れましたが、常に故郷のことを大切に思っていました。そのため、彼の作品のほとんどがアメリカ南部の町を舞台としたものとなっており、その民俗や風土が小説の細部に描き込まれています。

記者から始まる物語——ヘミングウェイ
フィッツジェラルドとフォークナーが大学を卒業しなかったのに対し、ヘミングウェイは大学教育も受けていませんでした。彼は高校卒業後、カンザスシティ・スター新聞社で働き、新人記者に提供される「執筆の手引き」により、自身の独特な文体を作り出しました。記者としてのキャリアが、「電信体」とも呼ばれる簡潔な文章スタイルを生み出すきっかけになっただけでなく、スペイン内戦を舞台にした『誰がために鐘は鳴る』などの名作の誕生にもつながりました。記者として常に戦場のすべてを目の当たりにしてきた彼の文章には、特別な説得力があります。

図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:フィッツジェラルド『楽園のこちら側』(1920年)

図説4:フォークナー『死の床に横たわりて』(1935年)

図説5:ヘミングウェイ『武器よさらば』(1929年)

モダニズムの思潮:三大巨頭の文学スタイル

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人生の悲喜を経験した——フィッツジェラルド
フィッツジェラルドは、プロの作家になる前にすでに多くの作品を書いていました。彼の一冊目の小説『楽園のこちら側』は、非常に性急な状況下で書かれたものでした。当時は、陸軍新兵訓練場での予備将校訓練中で、いつヨーロッパの戦場に駆り出されてもおかしくない状況だった彼は、作品が世に残らないまま死んでしまうことを恐れる一方で、南部の名家の娘、ゼルダと恋に落ち、彼女との結婚を強く望んでいました。まずは自身の著作で彼女を養えることを証明しなければと考えたのち、訓練の合間を縫って必死に小説を書くことになったのです。

アメリカ南部文学の巨人——フォークナー
フォークナーはアメリカ南部文学において重要な作家です。彼の執筆活動は常に、モダニズムの「普遍性」と南部文学の「地域性」の両方によって特徴づけられており、作品の中で描かれる登場人物たちの遭遇が人間の日常生活のあり方を反映している一方で、彼自身、アメリカ南部の歴史や文化、人種対立、男女差別、南部人に対する偏見などのテーマに関心を寄せていました。このことから、どの小説の中にも当時のアメリカの社会状況を伝える貴重な記録が残されています。

フォークナーは生涯世界中を旅し、多くの場所を訪れましたが、常に故郷のことを大切に思っていました。そのため、彼の作品のほとんどがアメリカ南部の町を舞台としたものとなっており、その民俗や風土が小説の細部に描き込まれています。

記者から始まる物語——ヘミングウェイ
フィッツジェラルドとフォークナーが大学を卒業しなかったのに対し、ヘミングウェイは大学教育も受けていませんでした。彼は高校卒業後、カンザスシティ・スター新聞社で働き、新人記者に提供される「執筆の手引き」により、自身の独特な文体を作り出しました。記者としてのキャリアが、「電信体」とも呼ばれる簡潔な文章スタイルを生み出すきっかけになっただけでなく、スペイン内戦を舞台にした『誰がために鐘は鳴る』などの名作の誕生にもつながりました。記者として常に戦場のすべてを目の当たりにしてきた彼の文章には、特別な説得力があります。

図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:フィッツジェラルド『楽園のこちら側』(1920年)

図説4:フォークナー『死の床に横たわりて』(1935年)

図説5:ヘミングウェイ『武器よさらば』(1929年)

図説6、7:AR写真

アメリカ古典文学:ハリウッドから文学賞作家へ

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ハリウッドへの進出——フィッツジェラルドとフォークナーの数奇な人生

フィッツジェラルドは生涯で3度ハリウッドに渡りました。それぞれの滞在期間は違えども、最後は、病によりこの地で亡くなりました。当時はちょうど世界恐慌の時代で、多くのモダニズム作家が家族を養うために、フィッツジェラルドのようにハリウッドに渡りました。ただ、フィッツジェラルドとハリウッドの関係はもう少し深く、『グレート・ギャツビー』はパラマウント・ピクチャーズによって3度も映画化され、2013年には新版も作られるなど、そのリメイク回数の多さは文学史上稀と言えます。また、彼の『夜はやさし』、『ラスト・タイクーン』、短編集『雨の朝パリに死す』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の作品も映画化されています。

フォークナーは、多くのモダニズム作家と同様、映画脚本家というもう一つの顔を持っていました。しかし、友人や家族に対して気前がよく、浪費家の一面もあったため、作家としての名声が最高潮に達し、小説で大金を稼げるようになってからも、しばしば経済的に困難な状態に陥りました。そこで、MGM、20世紀フォックス、ワーナーブラザースなどのスタジオに雇われてハリウッドに赴き、20本以上もの脚本を書いたのです。その中には、ハードボイルド探偵小説家レイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』や、彼が映画脚本に書き換えた、ヘミングウェイの『持つと持たぬと』など、映画史に残る大ヒット作も含まれています。

文学賞の栄誉
フォークナーの作家としてのキャリアを純粋に文学賞という観点から見るならば、最もよく知られているノーベル文学賞(1949年に受賞。アメリカ人作家としては、シンクレア・ルイス、ユージン・オニール、パール・S・バックに次いで4人目。ヘミングウェイは5人目として1954年に受賞)の他にも、ピューリッツァー賞 小説部門を2度、全米図書賞を2度受賞しており、この功績は、ヘミングウェイやフィッツジェラルド(前者は『老人と海』でピューリッツァー賞 小説部門を1度だけ受賞)をはるかにしのぐものであることは間違いありません。


図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:ヘミングウェイ『持つと持たぬと』(1937年)

図説4:レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』(1939年)

図説5、6、7:AR写真

台湾におけるアメリカ文学

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モダニズムとアメリカ文化の影響

1950年以降、台湾はアメリカから軍事・経済援助を受けるようになりました。それに伴い、アメリカ文化は芸術文化の発展を含め、台湾社会のあらゆる側面に深い影響を与えるようになりました。アメリカ合衆国広報文化交流局(USIA)が台湾に設立したアメリカ合衆国情報サービス (United States Information Service。 以下、「USIS」)を通じて、米国文化の紹介と普及がなされ、欧米の近代思想が台湾に導入される上でも重要な役割を果たしました。当時、台湾海峡をはさんだ両岸の政治的対立により戦争が一発触発の状態であったため、台湾政府は国家安全保障を目的に、海外からの情報を厳しく検閲・規制していたことから、USISが公共外交の目的で提供する情報は、台湾の人々にとっての海外芸術の情報供給源となりました。

1979年に海外旅行が解禁される以前の台湾では、留学を除き、芸術や文学に関する情報は、新聞や雑誌の記事を通してのみ触れることができました。情報が乏しく、アートや文学愛好家が知識に飢えていた時代、USISの図書館(図書室)は重要な文化拠点となりました。多くの高校生や大学生が放課後に通ってきては、英語の本や雑誌、コミックの閲覧、アメリカ映画の鑑賞、そして展示観覧やコンサートを楽しみ、現地の大学の情報収集などにいそしみました。若い芸術家もまた、より広い世界へつながる道、すなわち西洋美術界への入口として、USISに注目していました。

1950年代から1960年代にかけての台湾におけるモダニズムの台頭と発展は、台湾の「近代」への思索、そして社会の「近代化」発展とともにあり、それにより近代詩、近代小説、近代芸術などの文学や芸術における「近代化」に取り組まれるようになりました。戒厳令下にあった台湾の当時の状況において、台湾の近代化の過程で唯一自由に出入りできる文化は、「アメリカ援助文化」だけでした。いわゆるアメリカ援助文化とは、アメリカ経済から直接的または間接的に影響を受けた、文化的生産物や現象のことをいい、その仲介組織は、アメリカの公的機関であるUSIS、そして自由アジア協会、アジア財団などの非政府組織(NGO)でした。台湾の知識人たちは、現実の苦しみを原動力に、USISの翻訳・紹介を牽引力として、西洋モダニズムの技法と意識形態を学ぶ旅に出たのです。


図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:『今日世界』第1号、創刊号
1952年3月発行、イギリスのエリザベス二世が表紙を飾る。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:ヘミングウェイ『武器よさらば』 湯新楣翻訳(1966年)
香港今日世界出版社出版タイトルページに「台中USIS寄贈」の印がある。(国立台湾文学館所蔵資料)

USISと『文学雑誌』『現代文学』

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『文学雑誌』と『現代文学』は、文学史学者の間で台湾文学史の「黄金時代」とされており、戦後の台湾にアメリカのモダニズム文学を紹介した重要な出版物です。連続して刊行されたこれら二つの学会誌は、いずれも台北USISの支援を受けていました。

『文学雑誌』(1956~1960)
『文学雑誌』は、夏濟安、呉魯芹、劉守宜の3人によって創刊され、全48号が発行されました。編集長は台湾大学外国語文学部教授の夏濟安で、「近代小説」という概念を発表し、台湾のモダニズム文学の発展に大きな影響を与えました。一般的には、『文学雑誌』は、この3人が麻雀卓を囲んでいた際に発案されたと言われていますが、実際は台北USISがその支援を表向きに明言しなかった、”隠された(unattributed)”中国語月刊誌であり、台北USISは、毎号必ず「特別割引」で2,000部を購入し、それを海外にある他の9つのUSISに送付していたのです。

『現代文学』(1960~1984)
『現代文学』は1960年に創刊され、1973年の休刊までに51号を出版し、復刊後、第22号まで発行されました。同誌は、台湾大学外国語学科の「南北社」の学生、白先勇、王文興、欧陽子、陳若曦らによって創刊されました。アーチボルト・マクリッシュ、ジェイムズ・ジョイス、キャサリン・アン・ポーター、サン=ジョン・ペルス、フィッツジェラルド、オニール、フォークナー、スタインベック、ストリンドベリ、イヨネスコ、ジュール・シュペルヴィエル、ヘミングウェイ、シャーウッド・アンダーソン、ベケット、ヘンリー・ジェイムズ、T・S・エリオットなどの作品を含む西洋モダニズムを体系的に翻訳・紹介し、その中でも、特に意識の流れや実存主義的な小説は、若い世代の共感を呼びました。

図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:『文学雑誌』第1巻 第1号
国立台湾文学館所蔵資料

図説4:『現代文学』第29号
国立台湾文学館所蔵資料

クリエイティブ・ライティング・クラスの元祖:アイオワ・ライティング・クラス

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ライターズ・ワークショップとインターナショナル・ライティング・プログラム

1936年、ウィルバー・シュラムは、アイオワ大学で「ライターズ・ワークショップ」を設立し、世界中の作家らに翻訳と創作に専念できる1年間の時間を与え、芸術修士号を授与することで、文芸家が継続的に執筆できるよう奨励しました。1941年、第一期生としてクリエイティブ・ライティングの修士号を取得した学生の一人であるポール・エングルがアイオワ・ライターズ・ワークショップを引き継ぎ、「新詩創作」と「小説創作」のグループに分けました。ロックフェラー財団が創作分野に大きな関心を持ち、1944年以来、同財団を通じて個々の作家や批評家に小額の助成金や援助を実施していることは注目に値する事柄でしょう。

1967年、エングルは聶華苓とともに「インターナショナル・ライティング・プログラム」を設立し、世界中から1,200人以上の作家をアイオワへ招きました。アメリカの学者アレック・ベネットがエングルのアイオワ大学への寄贈資料を調査した結果、アイオワ・インターナショナル・ライティング・プログラムの設立資金は、米国務省、ロックフェラー財団、アジア財団といった非政府組織から提供されていたことが判明しています。

図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:楊逵「土包子放洋」原稿(1982年)
アイオワ・インターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)の招待で、楊逵は77歳の高齢にして初めてアメリカを訪れた。その際、長男の嫁、蕭素梅が同行し世話をした。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:劉還月『親炙土地・関愛文化――アイオワ訪問から帰ってきた向陽』(1986年)
『台湾文芸』第99号に掲載された内容には、アメリカ文化や国際交流に対する向陽の見解について語られ、自らの文化を大切にしてこそ、台湾が国際社会で存在感を示すことができるとの深い気づきを論じた。(国立台湾文学館所蔵資料)

西洋の技法を用いて、自分自身の物語を話す

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モダニズムの敬虔な信者
王文興は執筆を学ぶ過程で、アメリカ・モダニズムの影響を受けました。彼は伝統的な社会規範に疑問を投げかけ、運命や社会などのさまざまな現象について深く考察しており、現代人の孤独や絶望がその作品の中にもしばしば表れています。また、形式面では、従来の小説の直線的な時間の物語から脱却し、読者の世界観を再構築することに成功しています。

中国の伝統と西洋技法モダン派の融合
白先勇は、小説の中で登場人物の感情を伝える際、明らかな西洋的技法を用いて、登場人物の個性を引き立てています。例えば、小説『玉卿嫂』の終盤では、自然主義的な文体を用いて、玉卿嫂の感情と人生の自滅を非常に冷淡かつ詳細に描いています。また、有名な小説『遊園驚夢』では、意識の流れの手法を用いて、登場人物の内なる感情を伝統的な崑曲と呼ばれる戯曲のリズムに巧みに結び付けています。

図説1、2:展示会の実際の様子

図説3:王文興『家変』(1973年)
言語的実験と内部組織の変容を通して、現代のインテリ青年が成長する過程で遭遇する精神的葛藤を描き、家庭や社会の問題にも触れている。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説4:『現代文学』第30号
スペイン近代文学と作家白先勇『遊園驚夢』を紹介。(国立台湾文学館所蔵資料)

図説5:AR写真

結語

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西洋モダニズムの勃興は、西洋の近代化がもたらした人間の苦境を反映したものでした。フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイの文学作品を通して、私たちは第一世界大戦後のアメリカ社会の虚無を目の当たりにします。彼らは全員、第一次世界大戦の退役軍人ではありませんが、戦争は、明らかに3人の創作に深い影響を与えました。それとは対照的に、戦後、戒厳令下に突入した台湾社会において、アメリカのモダニズムは、一世代の創造性を育む共通の力となりました。モダニズムを追求する方法は作家によってそれぞれ異なるものでしたが、いずれも自らの経験や考えを組み込んだもので、広く認知され、受け入れられました。

冷戦時代、台湾の知識人たちは、USIS、今日世界社、今日世界出版社の翻訳・紹介を通して、アメリカや西洋のモダニズム思想を取り入れ、とりわけ今日世界出版社によるアメリカ文学の翻訳作品は、台湾の文学青年らの研究や創作のインスピレーションとなりました。台湾の作家たちもまた、その創作活動においてアメリカ・モダニズムの影響を受け、独自の特色を打ち出していきました。呉魯芹が言うように、台湾のモダニズム作家らは、20世紀初頭のヨーロッパ作家たちのナラティブ・アプローチ(narrative devices)やキャラクターの掘り下げ(character probings)から学んだものの、彼らの真の焦点は、西洋の手法を学ぶプロセスを通して、過去や現在の自分たちの周囲の状況について語ったことにあったといえるでしょう。したがって、台湾のモダニズムとは、高度に近代化された社会で展開されたものではなく、冷戦と反共主義のもと、西洋(かなりの部分でアメリカの)の技法を用いて台湾の物語を話したものであり、これこそが台湾におけるモダニズムなのです。

図説1:展示会の実際の様子

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