展覧の総括(展覽總說)

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2階建てオープントップバス、茶餐廳(香港式カフェレストラン)、重慶大厦(チョンキンマンション)、無厘頭(ナンセンスドタバタコメディ)─これらが香港に対するイメージでしょう。伝統的で現代的、厳粛で俗っぽい、赤い薔薇白い薔薇(妖艶と純潔)、そして、島と半島の存在。香港島、九龍と新界、これらは元々中国大陸の南端の漁村でした。命運が分れたのは1840年代のイギリス勢力による上陸時でした。人と金が世界中からビクトリア港を通じて流れ込み、その植民政策は、市井の生活を圧迫するものではなく、当時、北方では動乱が広がり、難民たちが南へ流れてきました。こうして、地元とイギリスと南下してきた人々の物語が交錯し、より複雑な歴史が作られていきました。作家も思わず尋ねます。「香港の物語は、なぜこれほど説明しづらいのだろう」と。

香港ではどのように自身の都市を描いているのでしょう。そして、香港のアイデンティティはどのように現れたのでしょう。この特別展では、香港の作家が長年書き続けた膨大な文学大系、テーマでもある香港の複雑な歴史を網羅しています。展示の5大テーマは、主に戦後50年をめぐるものです。遠い端にある島のわずかな光から始まり、政治的な戦争から受けた影響を露わにし、大衆文学の光を通じて、アイデンティティのスパークを生み出します。

「My City 私の街」は、「Our City みんなの心がひとつとなった街」となりました。香港文学には、人々を奮い立たせ、霧を晴らす力があり、台湾と香港の距離を近づける、ということを台湾の人々に知ってもらいたいと考えています。

流浪の日々も美しい想い出に(顛沛流離,現韶光)

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清末期から、中国大陸では次から次へと戦乱が続き、香港というこの島でも避難や驚愕、南下してきた文化の素養や衝動を受け入れてきました。南下してきた作家の中には、自分を通じて香港を見つめ、留まる者もいれば、離れる者もいました。そうして島全体が証人となり、廃れることなく残っている足跡を文学の発展を促す養分として、島の作家たちと共に華麗で見事な1ページを書き上げました。

【流浪の日々も美しい想い出に】 島に昇る太陽(【顛沛流離,現韶光】島上曙光)

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時代が轟々と前に進んでいく。私たちは、車に乗っていくつかの見慣れた道を通り過ぎたにすぎないが、満天の火の光の中で、深く感じ入り驚いていた。 ──張愛玲「燼余録」(1944)

香港が開かれた当初、一部の文化人たちが故郷を離れて香港へと移り、風物の詩を詠んだり、王韜のように新聞社を立ち上げるなど、島の一縷の文芸の光となりました。

辛亥革命後、中国大陸では頻繁に内戦が起こり、新文化が中国を席巻したこともあり、清末期の宿老は多く香港で隠居し、岬の一角で独自に儒教を信仰し孔子を祀りました。1920年代中期、香港の新文学が芽ぶき、香港新文学と西洋文化、中国古典文学が併存して混ざり合う、独自の中華言語文化空間が生み出されました。

1937年に日中戦争が勃発。数多くの文化人が中国から香港島へ避難し、抗戦文学を提唱しました。1941年、香港が陥落したため、文化人は香港から撤退しましたが、香港に残った一部の作家たちは、監禁されながらも屈辱に耐えて創作を続けました。その作品は、異民族による統治下の血涙の証人です。

戦後、改めて植民地としてイギリスに引き継がれますが、左翼文化人たちは中国の内戦により、再度香港に一時居住。左翼思想を宣伝しながら、政治局面の発展を凝視していました。当時の香港文学は、鮮やかな政治色で溢れていました。その一方で、見事な写実主義小説も現れ、戦後の香港社会と底辺に住む人間が作り出した時代の記録を残しています。

図説1:禺山黄小配『洪秀全演義』。1908年に香港の中国日報社から発行され、54回も増刷された本で、近代小説史において非常に重要な歴史長編です。「革命」に合わせて、太平天国に寄り添う形で彼らが義を起こす過程を描いています。『武漢風雲』は、1912年に香港の世界公益報から出版されました。ノンフィクション文学の手法を用いて革命の流れを描きます。黄世仲(1872~1913、別名に黄小配)と黄伯耀(1863~1940?)は兄弟で、いずれも孫文の革命運動に参加しました。

【流浪の日々も美しい想い出に】 香港の文学・歴史における重要な出来事(【顛沛流離,現韶光】香港文學/歷史大事意象)

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香港文学界における重要な出来事パネル:

1874年 王韜による『循環日報』創刊
1925年 省港大罷工(広州・香港大ストライキ)
1941年12月25日 日本による香港占領
1952年7月25日 『中国学生周報』創刊
1955年2月8日 金庸『書剣恩仇録』、香港の新武侠小説の人気沸騰
1956年3月 『文芸新潮』創刊
1967年 六七暴動
1984年12月19日 『中英連合声明』締結
1997年7月1日 香港返還
2014年 セントラル(中環)占拠及び雨傘運動(香港反政府デモ)
2019年 香港逃亡犯条例改正案反対デモ

政治闘争から生まれた現代(左右爭言,造現代)

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1949年、中国大陸の政権が変わり、台湾と中国共産党が海峡を隔てて対峙したことで、香港は比較的開放された空間として、様々な主義主張の競争を受け入れ、香港文学も豊かで幅広いものとなりました。しかし、冷戦の構図の中での香港は「自由世界」の前哨であり、「共産世界」とは海を隔てて対峙していたことから、文学もまた政治の影響を避けられず、社会にも傷跡が残りました。香港が開放的な空間だったことが有利に働き、現代文学の思想の導入、創造そして交流の影響力は、台湾や東南アジア各国に広がり、香港文芸のソフトパワーを見せつけました。

【政治闘争から生まれた現代】冷戦下の流行(【左右爭言,造現代】冷戰下的熱門)

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これは何かを掛け違えた時代だ。間違いをそのまま受け入れるという時代なのだ。
──陳慧『日光之下』(2016)

1949年、中国に訪れた大きな変化により、自由思想を持つ大量の文化人たちが香港に渡ってきました。ここでは過客として過ごす人がほとんどでしたが、過ごす時間が長くなるにつれ、ここを故郷とし、この街にその身を委ねるようになりました。その一方で、香港で生まれた地元作家たちは、「家」として香港への愛に満ちた作品を書き続けました。在来・外来が共にこの場所で文学生命を動かしていきます。

台湾と中国の政治上の隔たりと比べると、1950年代の香港は、植民地という特殊さから開放された文芸空間を維持することができ、様々な主義主張を競い合う地となりました。政治の力も文化事業を後押しし、各種刊行物が雨後の筍のように次から次へと現れます。政治的立場は異なるものの、香港のために豊かな文芸発表の場所を提供し、熱気のある文学界シーンを作り出しました。1967年の「六七暴動」以降、植民地政府が政策方針を改め、都市へのアイデンティティを強調したことで、香港人は改めて自分のアイデンティティについて考えるようになりました。中国の伝統文化、西洋文化のほか、地域文化を生み出す可能性を見いだし、香港人としての意識が芽生えていきました。

地元作家、左翼人、反共産、避難民が同じ場所で書くことで、独自の香港文化を構成しました。作家の徐訏『冷戦下の熱気』という詩は、1950~60年代の冷戦下の香港文壇が盛りを迎えた様を巧みに表現しています。

図説1:唐人『金陵春夢』。左翼作家である唐人(1919~1981)の小説で、諷刺を用いて蒋介石の生涯を描きます。国民政府から禁書に指定されたため、逆に反蒋介石小説として中国共産党政府の下で販売されました。

図説2:張愛玲『秧歌』。『秧歌』が描いたのは、「農地改革」背景下の中国の農村生活です。小説は、最初に英語で書かれた後、張愛玲本人が中国語に翻訳しました。『秧歌』ともう一部の小説『赤地之戀(赤い恋)』は、当時の冷戦構造、米ドル文化下において生み出された反共文学の代表作品です。

【政治闘争から生まれた現代】モダニズム文学の風景(【左右爭言,造現代】現代主義風景)

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私の死は、死である。彼らはまだ何かを議論し研究しようとしているのか。私の空虚な快楽を議論し研究しているのだろうか。
──崑南『地的門』(1961)

1956年に馬朗が創刊したモダニズム文学の刊行物『文芸新潮』は、香港のモダニズム文学思想の先駆的存在です。1950年代後半から1960年代にかけて、モダニズムの流れが香港を席巻し、数多くのモダニズム詩や詩論、小説等が現れ、内面世界の探索へとシフトしていきました。

『文芸新潮』や『香港時報』の文芸面「浅水湾」や『好望角』等、モダニズム文学の雑誌、刊行物が風気を巻き起こすと同時に、台湾においても重要なモダニズム文学雑誌である『現代詩』や『創世紀』などが呼応するように発行されました。これらの刊行物はそれぞれ、台湾、香港におけるモダニズム文学作家の重要な発表の場であるだけでなく、頻繁に作家たちの交流も行われていたことから、当時の台湾と香港双方のモダニズム文学の発展に大きな影響を与えました。

台湾、香港のモダニズム文学の発展と隆興の理由は異なりますが、両地の文化人たちが呼応した作品の交流は、モダニズムの風潮を圧倒的なものにし、当時の代表的な文学風景へと押し上げました。

図説1:『文芸新潮』創刊号。詩人の馬朗が編集長を務めた『文藝新潮』は、香港のモダニズム文学から生み出された重要な刊行物です。欧米の実存主義やモダニズム文学の潮流を紹介しながら、一方で香港・台湾の現代文学作品を多く刊行しています。香港の新しい文学の風潮を切り開くとともに、劉以鬯(ラウ・イーチョン)等の重要な現代文学作家も輩出しています。

図説2:劉以鬯(ラウ・イーチョン)著『酒徒』。劉以鬯(1918~2018)の『酒徒』は、香港現代文学の代表作品で、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『花様年華』と『2046』にも影響を与えました。映画と原作が異なるのは、映画では洒落て風流な主人公が、小説では酒におぼれた失意の文化人であるという点です。文学の価値を深く知りながらも、生活にひっ迫し、武侠小説や官能小説を書いて糊口をしのぎ、志を得られないことから抑うつし、酒で鬱々とした気持ちを発散させていました。

空いた時間で読むロマンスと任侠(消閒潮流,見情俠)

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1950~60年代の香港は、純文学の振興のほか、大衆文学も最初のピークの時期を迎えていました。三毫子、三及第文体、ロマンスや武侠等のカテゴリがあふれ、各種書籍と刊行物も百花繚乱、追いつくのもたいへんなほどの状況でした。

なお、純文学と大衆文学は、明らかな線引きをされて完全に二分されているわけではなく、新聞の連載では両者が入り交じっていることもよく見られました。また、同じ作者が両分野で創作を行うなど、それらを分けるどころか、互いに支え合うような状況もありました。大衆文学は、民衆に広く受け入れられただけでなく、ドラマ化や映画化もされ、文学を別の形で大衆の生活に深く浸透させ、中華文化全体の発展にも影響を与えるほど、影響力が決して小さいものではなかったのです。

【空いた時間で読むロマンスと任侠】過客が描き出す世界(【消閒潮流,見情俠】過客嘆世界)

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世の中は、大体がこのように、利だけを求め一切を省みない。誰かの利を攫っていく者は、自分もまた時に、誰かに利を攫われるのだ。  ──経紀拉『経紀日記』(1947)

1950年代に大量の移民が香港に入島し、娯楽へのニーズが増大。それにつれて、大衆文学も流行のピークを迎えました。この時代の香港大衆文学の特色として、「三及第文体」と「三毫子小説」の流行が挙げられます。「三及第文体」は、口語、文語、粤語(広東語)が入り交じった、生活に基づいた文体で構成された作品で、読者に広く受け入れられました。「三毫子小説」は、出版社が通俗的な各種テーマを文庫形式の中編小説として出版したもので、1冊3角(10角=1元)で販売。薄くて軽い製本で、トレンディな表紙を合わせて文芸とモダンを結び付けたことから、大衆に愛されて流行し、世間を沸かせた人気作家を多く生み出しました。

早期の南音(中国広東省の粤調音楽演芸)と木魚歌(広東省の音楽演芸、民謡の一種)などから始まり、文化人が妓院(遊郭)の妓女に書いて歌わせたもの、その後押し寄せた連載小説の波に至るまで、各種のロマンスやサスペンスなどの題材が加わっていきます。大衆文学の内容は千種万様で、香港の豪華で空虚な媚態や言葉や愛情のきめ細やかな一面を広く映し出します。その中から数多くの作品が映画化やテレビ、ラジオドラマ化され、都市文化の風潮を導いたことで、過客もここに世界を描き、私達が香港を読むための新たな窓を開いてくれました。

【三及第文体】
口語や文語、粤語を用いて構成された文体のことで、三種類の言葉が入り交じった香港の現地の生活に近い雰囲気を描き出し、多くの作品が世に出されました。この文体を用いた当時の代表作家として、経紀拉、我是山人、周白蘋等が挙げられます。

【三毫子小説】
1950、60年代の香港では、雑誌・新聞社が各種の通俗的な題材をテーマとした中編小説を出版。トレンディな若い男女をカラー表紙にして1冊3角で販売しました。内容は、主にロマンスで、その多くが女性を主人公として描かれています。


【新聞スタンド】

香港の街の売店は、報紙檔(新聞スタンド)と呼ばれ、かつては香港の街中のどこにでも見られていた風景です。新聞スタンドはレストランやカフェなどの近くに置かれることが多く、飲茶を楽しむ客が新聞を買っていきました。新聞や雑誌だけでなく、たばこやお菓子、シールやおもちゃなども販売していました。いくつかの新聞スタンドは、2代目、3代目と経営が受け継がれ、すでに数十年の歴史があります。都市開発やコンビニとの市場争い、ネットニュースの台頭などの影響を受けて現在は、徐々に街から消えつつあります。

図説1:経紀拉『経紀日記』。史得、経紀拉、小生姓高は、すべて作家の高徳雄(1918~1981)のペンネームで、数多くの作品を残した作家です。『私事』は、彼の多くのロマンス小説の一つです。『経紀日記』は、『新生晩報』に11年もの長きにわたり連載された小説です。雑文に分類され、白話(日常語)、文語、粵語(広東語)にて構成(「三及第文体」)されています。経紀拉が市場や生活から見て感じたことを、香港の社会経済や人間の様々な模様に反映して描かれています。

図説2:傑克『改造太太』。黄天石は、1950年代に、「傑克」のペンネームで多くの通俗小説やロマンス小説を生み出し、香港の文壇を駆け抜けましたが、『改造太太』もその一つです。注記すべきは、この作品は日本の文学者である大塚恒雄に注目され、日本語に翻訳されたことです。1954年に映画化もされ、上映されました。当時の傑克の人気ぶりは、市場に贋作が出回っただけでなく、国やメディアを越えた影響力を備えていたことからもわかります。

【空いた時間で読むロマンスと任侠】武侠の夢の世界(【消閒潮流,見情俠】武俠夢天地)

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人がいれば恩と恨みがあり、恩と恨みがあれば江湖がある。つまり、人こそが江湖である。
──金庸『秘曲 笑傲江湖 』(1967)

1954年1月17日、白鶴と太極の両派拳法の武術対決により、梁羽生の『龍虎闘京華』への創作とつながり、1955年には、金庸が『書剣恩仇録』の連載を開始。新しい武侠小説はこうして大きな人気となりました。武侠小説は、中国文化の素材が豊かに融合され、儒教、道教、仏教の思想と、天地を揺るがすアクションとが混ざり合います。小説内の侠客の技は、読者の理想の任侠の天地となったのです。

古代を舞台に今の世を語る寓意性や、任侠がもつ英雄性、その中に含まれる文化の意匠と想像力等が、武侠小説の愛される大きな理由でしょう。武侠精神は世界中の中華系の人々に深く影響を与えただけでなく、香港のテレビドラマや映画の発展にも直接的な影響を与え、それらの作品は幾度となくリメイクされ、今日に至るまで大人気です。武侠小説は、香港の大衆文学における重要な代表分野の一つといえるでしょう。


図説1:金庸『神鵰剣侠』 。金庸(1924~2018)の『神鵰剣侠』は、1959年5月20日に香港の『明報』創刊号で発表され、約3年の連載を経て、幾度となくドラマ、映画、漫画にて展開され、その影響力は全世界の華僑や華人社会にあまねく及ぼしています。この展示品は、1959年香港の鄺拾記報局発行の初版本です。当時、新聞に連載されながら出版されました。その人気の高さを反映して、市場に海賊版も出回ったほどです。

図説2:武侠小説家の梁羽生(1924~2009)の『白髪魔女伝』。『新晩報』にて連載の後、光明出版社から出版された作品です。物語の背景は、明末の万暦、崇禎年間、正と邪の対立人物が入り交じり、民族的大義に寄り添う形で展開されます。何度も映画化やテレビドラマ化され、梁羽生の著作のうち最も知られている作品の一つです。

古代を舞台に今の世を語る寓意性や、任侠がもつ英雄性、その中に含まれる文化の意匠と想像力などが、武侠小説の愛される大きな理由でしょう。武侠精神は世界中の中華系の人々に深く影響を与えただけでなく、香港のテレビドラマや映画の発展にも直接的な影響を与え、それらの作品は幾度となくリメイクされ、今日に至るまで大人気です。武侠小説は、香港の大衆文学における重要な代表分野の一つといえるでしょう。

図説1:金庸『神鵰剣侠』 。金庸(1924~2018)の『神鵰剣侠』は、1959年5月20日に香港の『明報』創刊号で発表され、約3年の連載を経て、幾度となくドラマ、映画、漫画にて展開。その影響力は全世界の華僑や華人に広がっています。この展示品は、1959年香港の鄺拾記報局発行の初版本です。当時、新聞に連載されながら出版されました。その人気の高さを反映して、市場に海賊版も出回ったほどです。

図説2:武侠小説家の梁羽生(1924~2009)の『白髪魔女伝』。『新晩報』にて連載の後、光明出版社から出版された作品です。物語の背景は、明末の万暦、崇禎年間、正義と悪役が入り交じり、民族的大義に寄り添う形で展開されます。何度も映画化やテレビドラマ化され、梁羽生の著作のうち最も知られている作品の一つです。

道に迷い、求めるアイデンティティ(不安迷城,尋認同)

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1970年代から、「香港」という地域意識が次第に芽生え始めました。1980年代に、香港の今後の問題が現実味を帯び、様々な立場と論調で争われ、歴史、文化、アイデンティティが語られるようになりましたが、「我の街」の前方に広がる霧を晴らすことはできませんでした。

「返還」が過去のこととなり、「50年」変わらない、という約束も次のデッドラインを描きつつあります。香港人は、常に時間に追われ、圧迫されているかのようです。世界のすべてが急速な変化を遂げますが、文学もまた同じです。好戦派と保守派が台頭し、新しい冷戦ではなく、都市と作家がいかにして自分の立ち位置を見つけるのか、これが目下の重要な課題となっています。

【道に迷い、求めるアイデンティティ】「私の街」、そして(【不安迷城,尋認同】「我城」及其他)

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あなたの身分証を何度も見たけれど、あなたは城籍(香港の都市籍)しか持っていない人なのね。
──西西『我城』(1975)

1970年代以後、戦後に生まれ育った世代がようやく香港社会の新興勢力となり、「ここが家だ」という香港独自の意識も芽生え始めた地元作家たちは、自身の境遇や都市社会の現実について思索を深めていきました。
1984年、中国とイギリスによる香港の今後の談話が終了し、「中英連合声明」が発表され、香港は正式に主権移行の過渡期に入りました。各界は、香港の歴史、文化、アイデンティティについて発言しましたが、香港の作家たちは、「浮城(浮上した街)」「失城(失った街)」「狂城(狂った街)」「傷城(傷ついた街)」を「我城(私の街)」と名付け、前途への焦りや不安、未来への様々な想像を表しました。
返還以前の香港に広がっていた各種論調について香港作家たちが書きつづった、国家の大論述に対抗した小さな物語は、一方だけの歴史叙述を信じてはならない、単純かつ唯一の見方など存在しない、ということを教えてくれます。その中に描かれる、多くの「バージョン」が存在する香港物語からは、逆に香港の街模様がはっきりと見えてくるようです。

図説1:西西『我城』。西西(1938~)は、本名を張愛倫という香港の作家兼編集者です。『我城』は、1975年に『快報』にて連載が始まり、半年ほど続いた後に素葉出版社から出版されました。小説が持つ力で香港の意識の発展を鼓舞し、『我城』は次第に香港の代名詞となりました。

図説2:李碧華『胭脂扣(ルージュ)』。李碧華(1959~)の『胭脂扣(ルージュ)』は、香港の塘西風月時期の有名な妓女の「如花」を描いた作品で、死後50年を経て戻ってきた昔日の恋人達の物語です。この作品は、香港の時代背景や価値観の変遷を反映しつつ、寓話的な手法を用いて政治にも含みを持たせています。1988年には同名の映画も上映され、張國榮(レスリー・チャン)と梅艷芳(アニタ・ムイ)が主演し、その名を知らしめた名作です。

【道に迷い、求めるアイデンティティ】未来はどこへ向かう?(【不安迷城,尋認同】未來往哪去?)

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その時、私は気がついた。人々を束縛してきたものは、注目や言論ではなく、以前から通常の習慣とされてきた何かであるということに。
──韓麗珠『縫身』(2010)

香港返還後、香港の前途はひとまず決まりました。作家の陳冠中は、「何も起きていない」と社会の様々な激情や心配へのアンチテーゼを掲げましたが、主権が中国政府に移された後の香港は、「何も起きていない」というわけにはいきませんでした。「50年」変わらない、という約束事に向き合いながらも、時間は常に進み続け、香港人はこの都市の様々な問題について繰り返し思考を続けました。

時間と空間が急速に消え、変化する街の中、作家たちは都市空間に充満する変異の距離感を記し、「私の街」の経済の動きや過度な開発について、海が埋め立てられ陸地になり、旧式の家屋が次々にガラスの帳にくるまれた新しいビルに場所を譲る姿を描き、発展と保護、新旧についての論争を引き起こしました。民族主義と地域主義のいずれを重視するか、または、この変化の両極において、自分たちの落ち着く場所、これからの香港人が落ち着ける場所をどのように探るのか。香港の作家たちは、香港の前途について描き、問い続けます。

2047年、50年という期限の中で、香港の未来はどこへ向かっていくのでしょうか。

図説1:陳浩基『13・67』。刑事の師弟コンビを主役に据え、1967年から2013年までの香港の変遷を描いています。作者の陳浩基(1975~)は、この本で台北国際書展大賞と日本の推理小説賞を受賞し、国際市場に躍り上がった香港の推理小説作家となりました。

図説2:Mr. Pizza『那夜凌晨,我坐上了旺角開往大埔的紅van(ミッドナイト・アフター)』。本書は、香港のネット小説作家であるMr. Pizzaの長編ファンタジー小説です。香港のインターネットフォーラムのスレッドで連載を開始し、2014年に紙書籍で出版され同年、映画化されました。内容が香港の社会や政治等多方面に及び、ネット上で爆発的な人気を引き起こし、紙書籍での出版や映画産業にも影響を及ぼすなど、文化生産の新たな時代の到来を生み出しました。

図説1:陳浩基『13・67』。『13・67』は、刑事の師弟コンビを主役に据え、1967年から2013年までの香港の変遷を描いています。作者の陳浩基(1975~)は、この本で台北国際書展大賞と日本の推理小説賞を受賞し、国際市場に躍り上がった香港の推理小説となりました。

図説2:Mr. Pizza『那夜凌晨,我坐上了旺角開往大埔的紅van(ミッドナイト・アフター)』。本書は、香港のオンライン小説作家であるMr. Pizzaの長編ファンタジー小説です。香港のインターネットフォーラムのスレッドに連載を開始し、2014年に紙書籍で出版され、同年、映画化されました。内容は、香港の社会や政治など多方面に及ぶだけでなく、インターネット上で爆発的人気を引き起こし、紙書籍での出版や映画産業にも影響を及ぼすなど、文化生産の新しい時代の到来を生み出しました。

大押系列(大押系列)

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香港の著名なデザイナーでありアーティスト。1958年に香港に生まれ、1979年に香港理工学院を卒業し、設計学の卒業証書を受領しました。1981年には香港デザインの父・靳埭強博士に師事して仕事を学び、共同で「靳与劉設計顧問」を立ち上げました。事務所は現在、「靳劉高設計(KL&K DESIGN)」となっています。

デザイン以外にも、パブリックアートや彫像創作等に従事し、多くの作品が博物館に所蔵されています。近年では、芸術の教育や普及にも積極的に参加。香港設計センター董事局副主席や国際設計管理学会顧問、北京歌華創意センター総監督など、数多くの非営利設計団体のトップマネジメント職も兼任しています。

劉小康氏は、「ボトルウォーターワールド(瓶装水世界)」グローバルデザイン大賞、第3回(嘉俊)中国国際設計芸術観摩展の終身設計芸術成就賞や香港設計師協会金賞など、国内外で数多くの賞を受賞しています。このほか、1997年には香港十大傑出青年の一人に選出され、2001年には「香港理工学院の傑出OB(校友)」にも選ばれました。2006年には、香港特別行政区政府から銅紫荊星章を授与されました。


【大押系列】
香港の開港以降、質屋が林立しました。一般の商店と異なるのは、質屋には常に目隠しのための前門があり、店舗内には大きな遮断板、その板の後ろ上部には鉄格子、その後ろに仕事に勤しむ店長がいる点です。

非常にミステリアスな店舗には、目が覚めるような鮮やかなネオン看板が掛けられています。1960年から1970年代までは香港の至る所に見られ、当時の香港の描写にもよく表象されます。香港の経済が豊かになるにつれ、質屋業も次第に下火になり、その看板も香港の街並みから徐々に消えていきました。

この「椅子趣」シリーズの家具は、質屋をテーマに、当時香港でよく見られた折り畳み椅子をベースに作られています。デザイナーは、香港の豊富で特徴的な二つの要素を盛り込み、一つの家具へと仕上げました。また、香港の家庭で30年以上成長を続けている著名な生活用品ブランドの「西徳宝富麗(遠東)有限公司」とコラボして、香港の思い出の集大成として敬意を表しています。

映画放映コーナー(影片放映區)

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8、90年代は、香港のテレビドラマの最盛期で、現代ドラマや時代劇等、歴史と文学の題材は、脚本において重要な制作テーマでした。『小説家族』と『写意空間』はこの時期のシリーズ作品で、香港放送のテレビ部が撮影した連続テレビドラマです。

『小説家族』は、1987年と1991年に香港の短・中・長編小説を改編したドラマシリーズで、西西の「像我這様的一個女子」、劉以鬯(ラウ・イーチョン)の『対倒』、 李碧華の『男焼衣』、也斯の『李大嬸的袋錶』などが放送されました。ドラマでは原作のシーンが再現され、梁家輝(レオン・カーフェイ)、林正英(ラム・チェンイン)など香港の著名な俳優たちも多く出演し、張艾嘉(シルヴィア・チャン )が主題歌を担当しました。『写意空間』は、文学のドラマ化の延長で、1995、1997、2000、2003年に放送された西西の『玫瑰阿娥的白髮時代』や董啓章の『永盛街興衰史』、伍淑賢の『父親』等のドラマでは、司会者の解説や文学評論が多く挟まれ、視聴者の好評を博しました。両者ともに、文学作品を簡単で見やすい映像作品に転換させたことで、文学の異なる一面を視聴者に体験させながら、香港の当時の時代感を映しだしています。

台湾と香港-島から島へ(臺灣香港,島連島)

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台湾と香港の距離は、そう遠くありませんが、多くの台湾人からすると、香港文学はかなりなじみのない分野になります。

しかし実際には、文化人の往来にしても、文芸雑誌の紹介にしても、台湾の視界の中では、香港文学は常に一定の存在感を持っています。香港文学の台湾での足跡を理解するだけでなく、自身で読むことで、輝かしき香港の1冊を見つけることができるでしょう。

【台湾と香港-島から島へ】台湾における香港文学(【臺灣香港,島連島】香港文學在台灣)

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この2本の物干し竿に掛けられている洋服は、鮮やかで俗っぽいが美しく、少し傍若無人で、まるで広東語の勁さのようだ。私は、まっすぐで旺盛な小市民の生活を反映した、他人の目など気にしないところが好きなのである。
──平路『蘭桂坊一隅』(2007)

1950年代以降、『現代詩』『現代文学』『創世紀』『文訊』『聯合文学』『幼獅文芸』等の台湾の文芸刊行物では、香港文学を数多く紹介しています。また、香港から台湾に進学した学生がその後作家になったり、台湾の作家が香港で仕事をしたり定住したりすることもありました。文芸雑誌と作家の往来や作品が台湾文学と香港文学の交流を促したのです。互いに影響を与えた記憶としての刊行物が、台湾における香港文学の足跡を残し、台湾と香港の二つの島の物語をつなげています。

その後1990年前後まで、香港の主権の移行によって様々な香港研究に対する熱気を促されたことから、短期間のうちに中国文学者が数多くの「香港文学史」の著作を出版。香港、台湾の文学者の香港文学への関心と議論を巻き起こすなど、近年の台湾における香港文学の読書と関連研究は、大きなトレンドとなっています。

図説1:『聯合文学』第94期の 「香港文学特集号」。香港の学者・鄭樹森を編集長に招いた「香港文学特集号」で、「論文紹介」と「作品」の2部構成となっています論文紹介パートでは、「20年来の香港文学」をテーマに香港文学発展の概論を、作品パートでは、「狹義の香港文学」を軸に80年代の小説や詩、散文作品を選出し、香港文学の様相を紹介しています。

図説2:蔡珠児『雲吞城市』。蔡珠児(1961~)は、1997年に香港の大嶼山ディスカバリー・ベイに移住し、創作に専念していましたが、2015年に台北に定住しました。『雲吞城市』は、2002年から2003年において、『中国時報』「人間副刊」の「三少四壮」コラムに掲載されたエッセイ集で、飲食から香港社会の文化景観を描き、香港の味の風景を表象しています。作者は自らの文筆を「台湾人のために書く香港風土のレポート」と表現しています。

【台湾と香港-島から島へ】美しき香港を読む(【臺灣香港,島連島】讀過香江)

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【二楼書店】

二楼書店は、香港ならではの文化風景です。その名の通り、二楼書店はビルの2階にある書店です。資金の豊富なチェーン店でない限り、たいていの小型書店や個人書店は、家賃の安いビルの上階フロアに落ち着きます。特に家賃が安いのが古いビルで、薄利多売の書店に好まれています。台湾人によく知られているのは銅鑼湾書店ですが、これも二楼書店の一つです。中国での禁書や翻訳書籍、前衛文芸書等の販売は二楼書店の以前の特徴でした。しかし最近では、書籍業界の経営困難や家賃の値上げ、政府の言論規制等によって苦しい状況に置かれ、次々に倒産や新しい経営モードへの転換等を余儀なくされています。

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