不服だから戦う:台湾文学論争特別展(不服來戰:臺灣文學論爭特展)

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口に出さなければ真理は明らかにならない。台湾文学の発展史は、「筆戦史」であるともいえます。文学も例外ではありません。文人は武器の代わりにペンを持ち、文字を戦術にして戦いました。激しい戦いの後、体系的な論述や学説が確立されることがありますが、時には傷跡を残し、水と火のように相容れない作家たちのグループを形成したり、政治的なタブーに触れたりすることがあります。

【不服だからペンを武器に戦う!】

信念があるから固執する。品位があるから褒めたり貶したりする。作家たちにはそれぞれの信念や品位があるため、お互いに「不服」を抱き、「戦い」が生まれる傾向があります。

台湾文学史では、過去100年間で大小10回以上もの筆戦が起こりました。もともと言葉を使うことに長けている作家たちが、文字を武器に衝突すれば、当然あちこちで火花が発生しますが、「不服だから戦う」には、はばからない痛快さだけでなく、文学信仰に対する真摯な気持ちが表れています。執着は鋭利なため、相手に痛みを感じさせます。それは、まさに文学への関心を証明しています。

すべては、1924年のあの日から語ることができるかもしれません──


【文学論戦とは何の戦いか】

文学の何を論争する必要があるのか?各々が自分で創作すればそれでよいのではないか?もちろん、作家にとって一番重要なことは創作活動です。しかし、「文壇」とは作家たちの集まりによる共同体であり、作家たちが集まって互いの作品を評価する際には、「文学的な論述」の形式が必要となります。そのため、作家は「文学的な論述」の意味合いを変え、自身の文学理念をその中に入れようと試み、何世代にもわたる文学論戦を巻き起こし続けてきました。

それによって文壇は、作品が美しく書かれていればいいという「美学至上主義」になったり、現実の反映が美感より重視される「現実主義」になったりすることもあります。文壇は革新性を強調することもあれば、反対に「伝統の継承」を叫ぶときもあります。新世代の作家が新たな概念をもたらす場合もあれば、古い概念から新しいものを発見し、文学的な論述に変化させる場合もあります。異なる時期の論戦で同様の議題が発生することもありますが、その意味合いは微妙に変化しています。例えば1930年代的の「郷土文学論戦」「郷土文学」では、「台湾人の言語で創作すべきか」という言語の問題であることを示し、1970年代の「郷土文学論戦」「郷土文学」では「台湾社会の現実を描くべきか」が問題のテーマになりました。

このように、毎回の論戦が「文学的な論述」を変化させ、新時代が切り開かれるきっかけになります。これは作家たちの「政治に対する文学的意見の発表」であり、次の文学創作における、言語、テーマ、思想、美感の基準、創作、執筆時の倫理に関する方針を示しています。これらの面を意識しながら見てみると、作家間の対立や共通認識を把握できるようになります。
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写真の説明1、2:展示会場の実景。

写真の説明3:AR写真。

【言語についての論争—大衆化への道を進み、台湾語を話す:どのように、誰のために書くのか】(戰語言)

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台湾新文学運動が全面的に始まる!

台湾人が新たな文学を求めるにあたり、「新しい文学はどの言語で書かれるべきか、誰のために書くのか」という問題があります。

【主な論争】

どんな文字で書いて皆に見せるか、どんな言葉で話して皆に聞かせるか。「我手寫我口(我が口に出すものを我が手で書く:白話文運動のスローガン)」は、見識が狭すぎるのではないか。台湾とはいったい誰の台湾なのか。

日本統治時代は台湾古典文学の黄金時代でしたが、新世代の知識人にとっては、古典文学の陳腐化に我慢ならない時代でもありました。そのため、現代教育を受けた新たな知識人と清朝および伝統文学を受け継いだ古典文人の間に「新旧文学論戦」が起こり、台湾新文学運動の時代が芽生え始めりました。

1920年代末になると、台湾総督府の政治的圧力により、多くの社会運動が強制的に停止されました。多くの知識人が文学活動に焦点を移したことで、台湾話文と郷土文学の運動が展開され始め、台湾文学運動はピークを迎えます。
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写真の説明1:展示会場の実景。

【言語についての論争】1924-1926新旧文学論戦:変わりつつある時代の音色(戰語言—新舊文學論戰)

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「新文学」陣営の白話文学促進には、張我軍、頼和などの「どの言語で書くか」といった討論だけでなく、「人々のために書く」という信念が込められていました。「旧文学」陣営の中心は連雅堂、鄭坤五などでした。注目すべきは、この論戦は新文学の台頭を引き起こしたものの、古典文学の衰退には繋がらず、新旧の文学の並行を形成したという点です。

【戦い】張我軍:一緒に「枯れた雑草の中に立つ古くてぼろぼろの殿堂」を取り壊し、新しい文学を確立しよう!

【不服】連雅堂:あなたたちは「西洋の模倣」に過ぎない!
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:張我軍『国文自修講座』1巻。1947年、中国から台湾に戻った張我軍は、台湾省教育会編集グループの主任を務め、『国文自修講座』計5巻を編集しました。本書には中国の新しい文学作品が収録され、編集者により、注音符号や日本語訳、分析が加えられました。当時、日本の教育を受けた台湾の読者も学習することができ、戦後の台湾における中国白話文の発展を積極的に促しました。

【言語についての論争】1930-1934台湾話文論戦:自分の声のために戦う(戰語言—臺灣話文論戰)

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「台湾話文」を支持する黄石輝、郭秋生は、台湾人は自分たちの言語を使って自分たちの世界を書くべきだと考えました。「台湾話文」に反対する寥漢臣、林克夫は、中国式の白話文が文学的な言語としてすでに十分であると考えました。この論戦は、台湾文学史上における「第1回郷土文学論戦」と見なされることが多いです。

【戦い】黄石輝:さあ!堂々と郷土について語ろうではないか。

【不服】廖漢臣:郷土?田園風景のことなら、すぐに消えてしまうだろう。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:『三六九小報』476号。『三六九小報』1930年に創刊され、毎月3日、6日、9日に発行されました。日本統治時代の中国語の新聞で、文言文や白話文の作品も掲載されていました。大衆向けの小説、花月新聞、豆知識など豊富な内容で、風雅なものから一般的なものまで楽しむことができました。議論堂皇の「大報」に対し「小報」という名前に寄せてユーモアを持たせていました。

写真の説明3:『南音』創刊号。1932年、黄春成が創刊し葉栄鐘、郭秋生などがメンバーとして参加した隔週発行『南音』は、12期発行された後、当局により発禁処分になりました。『南音』は仲間に発表の場をあたえるとともに、1930年代の台湾話文論戦における討論と実践の場を提供しました。負人(荘逐性)の「台湾話文の雑駁」と郭秋生の「台湾話文嘗試欄(台湾話文の実践コーナー)」は、どちらも当時の重要な文章です。

【アイデンティティ論争—あなたの文学観はあなたが誰であるかを定義する:文学の「アイデンティティ」と「美学」】(戰身份)

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台湾文学の「アイデンティティ問題」

日本統治時代末期から国民政府の初期、台湾人作家は植民地の抑圧から省籍(本省人と外省人)の溝に至るまで、最も根本的な問題に向き合い始めました。私たちが書く時の「私たち」とは誰なのか。

【主な論争】

1937年に日中戦争が勃発すると、台湾は戦時体制に入り、日本の植民地政府は皇民化、工業の南進化を推し進めました。同時に日本は「大東亜共栄圏」の確立を急ぎ、1940年代前後に「大東亜文学者大会」や「決戦会議」を開催し、台湾、日本、韓国の作家を招いて「国のために文学を役立てる方法」について意見を交換しました。

この中央集権的な統治下で、政府は文学に強く介入し、コントロールしました。それに従う作家もいれば抵抗する作家もいたため、「糞リアリズム論戦」が起こりました。戦後初期、台湾国民政府の時代になると、「皇民化時代」の文学は外省人の文人から疑問視されました。彼らは台湾の作家のもがき苦しんだ歴史を知らず、「橋副刊論戦」で台湾には文学がなく特殊性もないと痛烈に批判しました。台湾は数年の短い間に日本らしさが足りない、中国らしさが足りないという2つのアイデンティティの難題に直面しました。台湾人作家はどこへ向かえばいいのか。
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写真の説明1:展示会場の実景。

【アイデンティティ論争】1943糞リアリズム主義:意見を表明しなくてもいいのか(戰身份—糞寫實主義)

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戦争が激しさを増すにつれ、日本の植民地政府は徐々に文学創作の自由を締め付け、「皇民文学」を推進し、政策に沿った創作を台湾人作家に要求しました。政府側の立場をとる西川満が、台湾人作家の作風は日本文学の雰囲気が感じられない「糞リアリズム」であると批判すると、台湾の文壇は一斉に反撃しました。その中でも楊逵の〈糞リアリズムの擁護〉が最も代表的です。

【戦い】西川満:台湾文学の「糞リアリズム」は、ひどく低俗であり、日本の伝統がまったくない。真のリアリズムとかけ離れている!

【不服】楊逵:糞がなければ稲穂も実らないし、野菜も育たない。これこそリアリズムである。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:楊逵〈田植競争〉。日本語の原稿、中国語名は『挿秧比賽』。楊逵は短編の寓話によって1943年の糞リアリズム論争に応えました。作品では、「劉さん」と「田さん」が農民への田植え競争を指導しに行き、田んぼで牛糞が飛び散ると不快な反応を見せ、彼らは表面的に皇民化運動を指導していただけで、糞便や泥が稲を育てるのになくてはならない栄養源だということを知らなかった様子を描いています。それは、当時の論敵、「西川満」と「浜田隼雄」が台湾社会の実体をまったく理解していないことをほのめかすものでした。

写真の説明3:『文芸台湾』6巻1号。編集者は西川満で、日本統治時代の総合文芸雑誌の中で最も長く続きました。内容は文学、民族、絵画などで、芸術至上主義を主張していました。1940年創刊で、初期は台湾文芸家協会により発行され、1941年3月からは文芸台湾社の発行に変わりました。戦時中は日本の国策に合わせた編集方針に変わり、1944年に廃刊となりました。西川満は6巻1号で「文芸時評」を発表し、台湾人作家の郷土文学を「糞リアリズム」であると批判しました。

【アイデンティティ論争】1947-1949「橋」副刊の論戦:団結は必要だが、違いを認める必要はあるのか(戰身份—橋副刊論戰)

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歌雷は新聞『台湾新生報』で「橋」副刊を創刊し、さまざまな省籍(本省人と外省人)の作家とコミュニケーションしましたが、それが偶然にも「台湾文学に特殊性はあるか」という論戦を引き起こしました。外省人作家のほとんどは、台湾文学に特殊性はなく、日本植民地時代が残した弊害は取り除かなければならないと考えていました。本省人作家は、日本統治時代の伝統的な文学を見直すことで、台湾本来の特殊性を理解できると主張しました。この論争により、双方で埋めることが難しい「澎湖溝(本省人と外省人の溝)」が明らかになりました。

【戦い】楊逵:日本の統治下で、台湾の自然、政治、経済、社会はどれくらい変わったのか。台湾人の感情はどれくらい変わったのか。この「澎湖溝(本省人と外省人の溝)」のなんと深いことか!

【不服】駱駝英:台湾文学には「消沈、感傷、麻痺、『奴隷化』など落ちこぼれた『特殊性』」がある、「『郷土文学』は大して価値のない『文学』であり、中国革命からかけ離れている」。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:『台湾新生報』「橋」副刊。『台湾新生報』は1947年8月1日に「橋副刊」を増刊しました。編集長の歌雷は、「刊前序語(創刊についての前書き)」にて「橋は新旧の交替の象徴である」と述べ、外省人と本省人作家へ交流の場を提供し、戦後初期の台湾文学の再構築を目指しました。また同時に、双方の作家の「台湾文学」に対する異なる見解から、「橋副刊論戦」が起こりました。

【西洋化論争—私たちの詩は誰のスタイルに従うべきか:新詩の「西洋化」vs「東洋風」】(戰西化)

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新詩はどこに向かえば「新しく」なるのか。

1950年代以降、詩人たちは宣言、論戦、作品で「新詩はどこへ向かうべきか」という問いに答えようとしました。全面的な西洋化か、それとも伝統の継承か。また、いわゆる「伝統」とは、どの伝統なのか。

【主な論争】

1950年代、アメリカ支援のもと、詩壇には強い西洋化の波が訪れました。詩人の紀弦が発起した「現代派」が台頭し、西洋の詩歌理論による台湾の新詩の改革を試みました。

現代派の「六大信条」は当初大きな反発を招いたものの、「現代詩」の概念が生まれ、1960年代の詩人の間に広がり、受け入れられました。1970年代になると、台湾の国際的な情勢がますます悪化し、知識人の中で「現実回帰」の風潮が起こり、「現代詩」のさまざまな文学的観点が再び検討されました。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:AR写真。

【西洋化論争】1956-1957現代詩論戦:「現代詩」の発明(戰西化—現代詩論戰)

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紀弦は「現代派六大信条」を発表し、当時の台湾詩壇の陳腐な風潮に抗議しました。うち、「横の移植」は最も大きな論争を巻き起こしたものです。「藍星詩社」の覃子豪は、西洋から盲目的に学ぶのではなく、独自のスタイルを持つべきであると考えました。こうして、この論戦は、「新詩」は西洋から学び、「現代詩」はモダニズムに近づいていくという大まかな方針を確認するものとなりました。

【戦い】紀弦:私たちは、新詩は縦の継承ではなく、横の移植であると考えている。

【不服】覃子豪:中国の新詩は中国のものであり、また世界性を持つものである。世界性を持つものであってこそ独自のスタイルを持つことができる。
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写真の説明1、2:展示会場の実景。

写真の説明3、4:『現代詩』第13期。紀弦は『現代詩』を編集し、「現代派六大信条」を発表しました。「ボードレール以降、すべての新興詩派の精神と要素」の発揚、「横の移植」「知性の強調」「詩の純粋性」などの理念で、1950年代の台湾詩壇を活性化させました。紀弦が第13期で書いた『現代派信条釈義』は、「新詩の現代化」の達成と「新詩の再革命」の完成を目指したものです。1950年代の現代詩論戦のきっかけとなりました。

【西洋化論争】1972-1974関唐事件:「民族への回帰、時代の反映」(戰西化—關唐事件)

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関傑明、唐文標は多くの文章を連続で発表し、過度に西洋化し現実からかけ離れた現代詩を批判し、その激しい論調は台湾詩壇の反発を招きました。その中で顔元叔は「唐文標事件」を発表し、社会運動の理論を利用した文学への要求は新詩にとって不公平であるとの考えを示しました。幾度かの論戦後、台湾詩壇は再び軌道修正し、「民族への回帰、時代の反映」という意識が徐々に主流になりました。

【戦い】唐文標:彼らは実際、新世代文化の買弁に過ぎない。外国語能力の高さと理論の西洋化に頼り、産業時代の中国の文学にアヘンを大量に売りつけることもできる。

【不服】顔元叔:彼らの考えは、社会のみで家族はいない、群衆のみで個人はいない、顕在意識のみで潜在意識はない、大衆について述べるだけで、個人については表現しない、「怒髪天を衝く」のみで、「涙で服を濡らすことはない」。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2、3:『龍族』創刊号。「龍族」と名付け、現代詩の「伝統への回帰」を試み、1960年代以降、台湾詩壇に影響をあたえてきたモダニズムを内省しました。『龍族』創刊号の前書きでは、「詩が社会を批判しなければならないのはもっともであるが、私たちも心を開き、社会が私たちの詩を批判できるようにならなければならない」と述べられています。当時の台湾は、保釣運動や国連からの脱退などさまざまな困難に直面していました。現代詩は詩の行き詰まりを打開しようとしており、社会に寄り添うエネルギーが表れていました。

写真の説明4:顔元叔〈唐文標事件〉、『中外文学』2:5。1973年の台湾文壇では、数か月のうちに唐文標による現代詩を糾弾する4編の文章が登場し、この現象は顔元叔により「唐文標事件」として総括されました。顔元叔は「新しい批評」を台湾に導入した重要人物で、唐文標の文学観を「社会的功利主義」であるとしました。唐文標は社会運動の専門家で社会から文学をとらえていると考えました。また顔元叔は、文学は自由に創作されなければならず、「人生のすべて」が内包されていなければならないと考えました。

【郷土論争—台湾は台湾の郷土か、それとも中国の辺陲か】(戰鄉土)

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徐々に姿を現した「台湾文学」。

「台湾文学」は長い間、「中国文学の一部」として身を潜めており、一部の人々は自問自答を始めました。「なぜ、私たちは他人の一部でなければならないのか。私たちは私たち自身ではいけないのか。」

【主な論争】

長い戒厳令時代の間、「台湾文学」を口にするのは一種のタブーであり、その独立性を主張すれば、政治的な圧力を受ける可能性がありました。1970年代の「郷土文学論戦」は、「文学は現実に注意を向けるべきか」という考えから始まりましたが、思いがけず「台湾文学」の問題が浮上し、その後の「辺陲文学論戦」「台湾意識論戦」が起こるきっかけとなりました。台湾文学とはいったい何なのか。中国との関係についてどのように位置づけるのか。かつて「橋副刊論戦」で激しく議論され解決しなかったテーマが1970年代から1980年代に再び浮上し、文学論戦の舞台に躍り出てきました。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:AR写真。

【郷土論争】1977-1978郷土文学論戦:「左派、右派、統一派、独立派」の総力戦(戰鄉土—鄉土文學論戰)

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1970年代の台湾は「現実回帰」の思潮のもと、「郷土文学」が徐々に主流になっていきました。それと同時に、政府側の反共文学陣営は批判する文章を発表しました。郷土文学論戦は表面上は「政府側」と「民間」の対立でしたが、実際、同じく郷土文学を支持する人々に「郷土とはどこなのか」と質問すると、陳映真の「統一派」と葉石涛の「独立派」に分かれました。郷土文学論戦は戒厳令解除後の文学にエネルギーを蓄積させました。

【戦い】余光中:オオカミを見ていないのに「オオカミが来た」というのは自己不安であり、オオカミを見たのに「オオカミが来た」と言わないのは臆病です。問題は帽子(シンボル)にではなく、頭(思想)にあり、帽子がちょうどいいと感じるなら、それは「帽子をかぶっている」のではなく、「頭(思想)がつかまれている」という意味になります。「帽子をかぶる」ことを声高に主張する前に、「工農兵文芸工作者」は自分の頭(思想)を検査すべきです。

【不服】胡秋原:もし誰かが「狼来了(オオカミが来た)」と報告すれば、詳しい者を探して本当にオオカミなのかまたはただの小鹿なのかを確認してみる必要があるだろう……私は、文芸における最も優れた政策とは、憲法を順守すると同時に作家に利便性を提供し、愛国・反共産主義の作品を奨励して自由な競争に耳を傾け、議論することであると思っていました。政府が文学論争に参加するなど滑稽な話で、西洋を持ち上げて郷土を抑圧するのは、非常に愚かなことです。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:葉石涛「台湾郷土文学史導論」、『夏潮』14期。葉石涛はこの文章で「台湾意識」を提唱し、台湾の郷土文学とは「台湾の立場からすべての世界文学を見通す作品」であるべきとしました。葉石濤のこの序論はその後の台湾文学を発展させる大きな一歩となりました。

写真の説明3:尹雪曼「台湾郷土文学論戦始末(台湾郷土文学論戦の始まりと終わり)」。尹雪曼(1918-2008)、本名尹光栄は、『中華民国文芸史』の編集責任者を務めたことがあり、郷土文学論戦においては政府代表の立場でした。この文章の中で郷土文学論戦の2つの意義について語られ、その一つは60年代における文芸界の西洋化風潮への反動、もう一つは今日の「本土化」の先駆けでした。

【郷土論争】1981「辺陲文学」論:台湾は中国でなくてもよいのか(戰鄉土—「邊疆文學」論)

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詹宏志は「両種文学心霊(2つの文学の心)」を発表し、台湾文学は結局のところ中国の辺陲文学に過ぎないのではないかとの考えを示しました。その後、本土派の作家、宋沢莱は「台湾十日談」を発表し、台湾文学の価値を主張しました。この論戦は、1983年の「台湾意識論戦」の導火線にもなり、台湾問題がより表面化することになりました。

【戦い】詹宏志:もし300年後の人が中国文学史の終章にこの30年間の私たちを100文字で描写するとしたら、どのように表し、どのような名前に言及するだろうか……未来におき、そのすべては、辺陲文学として扱われるだけであろう。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2、3:詹宏志『両種文学心霊(2つの文学の心):2作の聯合報小説賞受賞作品の評論』,『書評書目』第93期。1972年に洪建全文教基金会により創刊されました。ページの3分の2に書評、残りに書目を掲載した戦後の台湾で最も初期の書評刊行物です。文学の批評と文学資料の保存という役割を兼ね備え、合計100期発行されました。1981年、詹宏志は『両種文学心霊(2つの文学の心):2作の聯合報小説賞受賞作品の評論』を発表。台湾文学は中国文学の片隅にあるにすぎないのではないかと述べ、文壇に論争を巻き起こしました。

【課程標準論争—国語の教科書には何と書くか:文学の過去、文学の未来】(戰課綱)

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「文白之争」の概念

教育改革の進展にともない、国語の教科書における「文白之争」が表面化し、社会で最も反響の多い文学的な議題になりました。作家が国民教育について討論するということは、作家は政治的圧力を受けておらず、逆に政治に影響をあたえていることを意味しています。

【主な論争】

文白之争では、教育システムから噴出した「言語」や「アイデンティティ」がその議題になりました。特定の意識に守られた「伝統的価値」は、非常に堅固で打ち破ることができず、文学教育の発展が封じ込められます。「新旧文学論戦」で古典文学を批判することから始まった台湾新文学運動ですが、100年後には「文白之争」が勃発し、「白話文vs漢文」の論戦が繰り広げられたことは、まさに私たちの台湾新文学が未完成であることを示しています。「文白之争」は教育がテーマでしたが、多くの作家の参戦を促しました。双方の論述もまた先に触れたすべての論戦を引き継ぎながら言語、現実、アイデンティティ、伝統、文学的価値などの議題について掘り下げる、非常に象徴的かつ意義があるものになりました。

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2017文白之争:100年にわたる変化と不変

教育改革に伴う国語教科書における「漢文の割合」も作家たちの戦場になりました。国語教科書について、「漢文の削減反対」陣営は中国古典文学の継続を訴え、「漢文の削減支持」陣営は本国の現実と歴史的な繋がりが強調されたものになるべきであると考えました。最終的にこの論争は、漢文の割合を削減するということで決着がつき、戦後の台湾における国語教科書で初めて「現代文学の割合が半分以上」になりました。

【戦い】「国語文是我們的屋宇:呼籲謹慎審議課綱(中国語が私たちの家:課程標準の慎重な審査の呼びかけ)」:私たちがより心配しているのは、軽率な変更による、エリート層とそうでない学生の分散です。力のある家庭は子供に古典文化を学ぶ別の機会を模索できますが、そうでない者はどうすることもできず、言語レベルが国際レベルを下回ることになります。

【不服】「漢文の割合の削減を支持し、台湾の新しい文学の教材を強化する──本国の国語教育改革を主張」:漢文の教材に固執し続けることは、保守主義への依存、さらには台湾の植民地意識であり、時代錯誤の中国コンプレックスの再現ともいえます。
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写真の説明1、2:展示会場の実景。

写真の説明3、4:AR写真。

《音の瞬間》テクノロジー・インタラクティブ・インスタレーション(《重返聲音現場》)

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この展示では、前述の論戦の雰囲気とイメージの再現を目指しています。議論の現場に立ち合い、対話を通じて観点を明確にし、「論じれば論じるほど真理が明らかになる」「理はかなっているものの通じない」といった論争の現場を体験できます。

マイクに向かって「戦おう」と言い、壁に投影されている6つの台湾文学論争から、一番興味があるテーマを選んで声に出し、文章を朗読してやり取りしてください。最も同意する内容を声に出すと、最後に文壇におけるあなたのポジションを確認することができます。
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:インタラクティブ装置操作画面。

おわりに:異なる所から同じ所を求め、同じ所には異なる所が存在する(結語)

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「関心があるからこそ対話する」。これが台湾文学の論争における温かさと優しさです。論戦の最中は戦いの舞台があらゆる場所に飛び火し、火薬の煙が立ち上っていたものの、たとえどうであっても、文学の言い争いとは、異なる所から同じ所を求め、同じ所には異なる所が存在するものであり、強制したりされないものです。これが文学の戦地であり、また、文学の原点でもあります。不満だから意見を言う。不服だから反論する。そのやり取りの中で作品や思想が生む「言い争い」には非常に意味があります。

不服だから戦う──1924年から2017年の100年近くにわたる文人の言語、郷土、大衆、西洋化、アイデンティティなどのテーマに対する思考、台湾の本土意識についての主張、文学的な論述による争いが私たちの文化の養分になりました。

胸を締め付ける言い争いで、忍耐強く耳を傾けます。より包括的な真理に向かい、文学論の戦場で、反対に賛成(Agree to Disagree)します。

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《チームメイトを集める》一緒に記念撮影・インタラクティブ撮影装置
すべての文学論戦は理念の争いです。そして理念が、作家の創作時の指針となり、それがどのような作品になるか、どのジャンルに属するのか、誰のチームメイトになるのかを決定づけます。

自分が作家だと思ってデバイスを操作し、順番に5つの問題から自分の理念と近いものを選んで回答し、自分の文学チームを作ってください!
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写真の説明1:展示会場の実景。

写真の説明2:インタラクティブ装置操作画面。

年表(大事紀)

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【主な論争の歴史】
1924-1926|新旧文学論戦
1930-1934|台湾話文論戦
1931-1937|人生と芸術のための論戦
1935|民間文学論争
1943|糞リアリズム主義論戦
1947-1949|「橋」副刊の論戦
1956-1957|現代詩論戦
1961|天狼星論戦
1962|中国・西洋文化論戦
1972-1974|関唐事件
1977-1978|郷土文学論戦
1981|辺陲文学論戦
1990|ポストモダニズムと脱植民地化後の論争:廖朝陽、邱貴芬 vs 廖威浩、陳昭瑛
2000|双陳論戦:陳映真 vs 陳芳明
2011|台湾語語文事件:黄春明 vs 蒋為文
2013|散文性質論戦:黄錦樹 vs 唐捐
2017|108課程標準漢文の割合論争:漢文vs白話文

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