展示の説明(展覽總說)

語音導覽

歴史は、人類が過去に経験してきた出来事や行動の記録です。つまり、歴史とは一種の文章なのです。文学は特異な描写形式であり、作家たちはこれまで、歴史的出来事を題材に独自の見解と文才でその意味付けを行ってきました。その感傷や批判の記録は、また別の角度から記される歴史として、後世の人々の認識や感情に影響を与えています。今回の特別展では、台湾の重要な歴史的出来事を中心に、作家の手稿、貴重な書籍や逐次刊行物など本館が収蔵する寄贈作品を展示しています。その中では、人々の事跡が歌われたり、厳しい役人や政治が批判されたりしています。文学の中では時間は必ずしも直線的に進んでいるわけではなく、起承転結や紆余曲折を表すように弧線を描いています。このガイドツアーでは各エリアの展示物を中心に、関連の歴史的出来事や文学との対話や反応を紹介します。また、会場では当時の出来事も多く紹介されています。ぜひ、歴史と文学が時空の中で織り成す交響曲をじっくりと味わってください。

--

図説1 ~ 3:展示会の実際の様子。

図説4:AR写真。

オランダ統治時代、鄭氏政権 (1624-1683)

語音導覽

1625、オランダが一鯤鯓にゼーランディア城を築城

大航海時代!西洋の列強は世界各地にさまざまな強制占領の物語を残しました。その中で最も有名なのが、はじめに土地の所有者に「牛皮一枚分の土地」を借りたい、または買いたいと持ちかけ、承諾されると、牛皮を細く切って紐にして広い範囲を囲んだという「牛皮一枚の土地」です。牛皮で土地を騙すという話は、台湾にも残されています。清朝統治時代の大目降(現在の新化)の詩人である王則修は、オランダ人の詭計で土地が騙し取られた売買や貿易の黒歴史を詩にしています。


1662~1683、鄭氏政権

台湾に22年間存在した鄭氏政権は、1661年に鹿耳門から上陸した鄭成功がオランダ人のプロヴィンティア城、ゼーランディア城を攻め、オランダ東インド会社の勢力を台湾から追い出したことで始まりました。鄭成功は台南に承天府を置き、台湾初の漢民族による政権が誕生しました。1683年(康熙22年)、施琅が台湾を攻め、鄭成功、鄭経、鄭克塽の三代にわたる鄭氏政権が幕を閉じました。こういった混乱に関し、日本統治時代の詩人である劉克明も「鄭氏政権が続いていたら台湾の未来は変わっていただろうか?」という問いを投げかけています。

-

図説1:展示会の実際の様子。

図説2、3:王育徳(1924-1985)、『台湾—苦悶的歴史(台湾―苦悶するその歴史)』東京都:台湾青年社、1979。台湾人の立場から、自由と幸せを求める台湾人の戦いの過程を記録した作品です。本書は1964年、まず日本語版が東京の弘文堂より出版され、その後中国語に翻訳されました。内容は「台湾」という地名の由来からオランダ統治時代、鄭氏政権、清朝統治時代、台湾民主国、日本統治時代、国民政府時代、近代史までとなっています。

図説4:刀水、「台湾文化畧説(台湾文化の概要)(一〇)~(一四)」、『三六九小報』第365~369号。母が死に、父が清に降伏したことに悲憤した鄭成功が、状況を打開するために挙兵し、南京に進軍するも成功せず、台湾の覇権を唱えて台湾を占領した経緯が描かれています。

清朝統治時代 (1684-1895)

語音導覽

1786、林爽文事件

1787年(乾隆時代)、天地会に対する取り締まりで林爽文の叔父が逮捕されたことをきっかけに反乱を起こし、荘大田などと共に民衆を率いて彰化、鳳山、台南、諸羅など各都市を次々に攻め、台湾府知府の役人などを殺害しました。最終的に大学士の福康安が軍を率いて対峙し、1788年(乾隆53年)に林爽文らは捕らえられました。護送車で北京に送る道中、泉州では東の海からやってきた台湾の「賊人」を見ようと人々が押し寄せました。この動乱により台南城の防衛強化が促され、木の柵、竹の城だったものが土城に改築されました。清代の江蘇の文人である趙翼が残した詩には、反乱の当初、朝廷の命で幾度も海を渡り、増兵されても抵抗運動の勢いを止められず、城が包囲されて米や食料がなくなり、革を煮て腹を満たした兵士や民の苦境を嘆く様子が描かれています。


1862、戴潮春の乱

1862年(同治元年)、台湾天地会が兵備道の孔昭慈により厳しく弾圧され、身の危険を感じた戴潮春を首謀者とする反乱が起こりました。戴潮春は民衆を率いて彰化県城を攻め、敗れた孔昭慈は自害に追い込まれました。しかし、共に行動を起こした漳州人と泉州人が仲たがいで分裂し、最終的に台湾道の丁曰健や霧峰林文察など官民の協力により平定されました。彰化の文人であった陳肇興は、事件の当初に戴潮春の呼びかけを断って集集の山中に逃れ、戴潮春の暗殺を試みるも失敗しました。戦死した兵士への追悼の意が込められた「野焼連村起、渓涛帯血流(燃える野や村、血の流れる河)」には、耐え難い壮絶な乱世が記されています。

-

図説1:展示会の実際の様子。

図説2:楊廷理(1747-1813)、『東瀛紀事、手稿』。林爽文事件の経過が描かれています。

図説3、4:呉徳功(1850-1924)、『戴案紀略』手稿。戴潮春の乱の経過が記されています。

日本統治時代 (1895-1945)

語音導覽

1895、乙未の台湾割譲、台湾民主国の建国

朝鮮を巡る問題をきっかけに日清戦争が勃発しました。その翌年、清国が北洋大臣の李鴻章を日本に派遣し、下関条約が締結され「乙未割台」と呼ばれる台湾割譲が行われました。台湾の官民はこれに危機感を抱き、一部の台湾人は強く抵抗しました。台湾巡撫の唐景崧が5月23日に「自主宣言」を発表し、25日に日本に対抗する「台湾民主国」を建国しましたが、数か月で崩壊しました。民間に伝わる『台省民主歌』にはその状況について、「四月城内出告示、衆人迎印去交伊、民主国号三大字、山頭拉起百姓旂(四月に城内で発表、民衆は歓迎、民主国の3文字、山に旗が掲げられる)」と記されています。清代末期の文人である林子瑾もこの春の夜の夢を見て、成功も失敗も軽んじてはいけないという嘆きを詩にしています。

1941、皇民化運動

1937年、日本は大東亜戦争に突入し、植民地における同化教育、すなわち「皇民化」を強行しました。当時の台湾総督、小林躋造は「皇民化、工業化、南進基地化」の3原則を発表し、1941年4月には皇民奉公会を設立して皇民化運動を始め、台湾人は大日本帝国に忠誠を誓うよう強要されました。周金波、陳火泉など、一部の台湾人作家は、台湾における皇民化の経験を題材とした文学を発表しています。同化される台湾人の複雑な心理を表す作品でしたが、当時は「紛うことなき皇民文学である」として批判されました。何年もの後、文学史家の葉石涛はこの件について「皇民文学は存在せず、すべては抗議文学である」とし、鍾肇政もまた血塗られた時代の無念さを著したものであるとしました。

-

図説1:展示会の実際の様子。

図説2:洪棄生(1866-1928)、「台湾淪陥紀哀」手稿、『洪棄生氏の遺書』2より。乙未戦争の詳細が詩で書かれており、異民族に統治される台湾の怒りと悲しみが表現されています。

図説3、4:陳火泉(1908-1999)、「道」手稿。原作は1943年7月に『文芸台湾』第六巻第三号で発表されました。台湾の青年「青楠」が、専売局樟脳課に就職し、「本島人(台湾人)」から本当の「日本人」になるにはどうすればよいのかを思索するさまを描いています。

戦後(1945年から現在まで)

語音導覽

1960、雷震事件

1949年11月、政治評論家の雷震は『自由中国』を創刊し、国民党の開明派と党外の自由主義者を集めて蒋介石の独裁政治を批判し、反政府運動を推進しました。1960年9月、『自由中国』第23巻第5期にて殷海光の「大江東流擋不住」を発表し、立党の流れは止められないことを主張しました。その後、反乱罪の罪で警備総部に逮捕されました。雷震は懲役10年の重罪となり、『自由中国』も差し押さえられ、立党運動は跡形もなく消え去りました。『民主的浪漫之路(民主のロマンの道):雷震伝』では、国民党政府が『自由中国』と雷震を処分することを決意した大きな要因は、雷震が蒋介石総統の3期連続就任を違憲であるとして反対し、新たな政党を結成しようとしたことであるとしています。

1980、林宅血案(林一家惨殺事件)/1981、陳文成事件

1980年2月28日、当時の台湾省議員であった林義雄が美麗島事件の判決により拘置所に収容されている中、自宅で母親の游阿妹、7歳の亮均と亭均の双子姉妹が刺殺され、長女である9歳の林奐均も重傷を負った「林宅血案(林一家惨殺事件)」が起こりました。1981年、アメリカで教鞭をとっていた統計学者の陳文成博士が家族を訪ねるために台湾に戻りましたが、『美麗島雑誌』に寄付していたという理不尽な理由で警備総部に自宅から連れ去られ、翌日に台湾大学研究生図書館横の草むらで遺体となって発見されました。2年連続で政治的とみられる暗殺事件が発生したものの、どちらも数十年にわたり未解決となっています。林義雄が母親に宛てた碑文には「您的慈暉将永遠照耀我們以及後代子孫(あなたの慈愛の輝きは永遠に私たちとその子孫を照らし続ける」と刻まれており、戒厳令と恐怖政治を思い起こすための礎となっています。

-

図説1:展示会の実際の様子。

図説2、3:『自由中国』創刊号、自由中国雑誌社。1949年に創刊された『自由中国』は、白色テロの時代に時事問題を公に評論した媒体です。自由民主主義の価値を広めて共産党の全体主義に抵抗し、中国全体を自由な中国にすることを目指しました。

図説4:「彼条路-送林義雄前主席(林義雄前主席へ)」手稿。この文は荘柏林が民進党の前主席である林義雄に宛てた詩で、政治理念を普及する孤独で苦難な道を勇敢に進み続けた彼を描写しています。

此為預覽畫面