淡水古跡博物館 (にほんご)

チケットブース

音声ガイド

「清末期淡水関税務司官邸」は淡水の埔頂エリアに位置し、壁が白いため、現地の人々から小白宮(リトルホワイトハウス)と呼ばれています。

1862年に淡水に滬尾(こび)税関が設立され、正式に関税の徴収が開始されました。滬尾税関は台湾で初めての外国貿易を管理する関税機構であり、以降安平、鶏籠(基隆)、打狗(高雄)などに税関が設置され、そのすべてが滬尾を本関(税関本部)として全台湾の輸出入業務を統括していました。

1863年清朝は西洋人に副税務官を担当させることに同意し、実質上の税関の事務と税務の権利を掌握しました。滬尾税関は当時外国籍の税務官の管理のもと、制度があり管理された国際港となり、同時に清朝に豊かな利益を獲得させました。

輸出入業務が日増しに複雑になり、増加するにつれて、外国籍の税関職員も次第に増えていきました。住居の問題を解決するために埔頂の土地を購入し、官邸を建設しました。書記と低い階級の税関職員のために1875年にはさらに2棟の宿舎が増築されました。現地の人々は「埔頂三塊厝(埔頂の3棟のマンション)」と呼んでいました。しかしながら1884年に清仏戦争(しんふつせんそう)が勃発し、低い階級の税関職員の宿舎は損壊してしまいました。

日本統治時代になり、淡水港は没落して関税は減少していきました。そこで日本の税関長は「五十会倶楽部」を組織して破壊された官邸を再建し、公式なゲストハウスおよび迎賓館として使用しました。台湾の光復(日本統治の終了)後は財政部台北関(基隆関税局)が接収し、もともと3棟あった官邸と宿舎は1棟のみが残され、1950年には当時アメリカ国籍の総税務司署長であったレスター (Lester Knox Little)の官舎となりました。

1996年小白宮は取り壊して新たな建物として再建する危機に見舞われましたが、幸いにも地元の人々と学者や専門家による全力での保護活動により、1997年内政部により三級古跡(市定古跡)として認定されて保存されるようになり、今に至ります。

斗子壁

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ここでは小白宮が建設された当時から残されている一部を黒レンガによって造られた斗子圍牆(壁囲い)と、後期に改築し修復された際に異なる材質を利用した壁囲いの現在の状況を見ることができます。

水管頭

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日本統治時期に積極的に水道の建設計画が行われ、淡水に台湾初の現代化浄水場が建設されました。大屯山麓の源泉から、きれいな水が安定して供給されるようになり、現地の人々の水汲みの苦労を解消すると同時に消防の機能も備えていました。取水設備が郵便ポストの形に似ていたことから、現地の人々より「水管頭」と呼ばれていました。

景観観察プラットフォーム

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現在の位置から観音山(かんのんやま)と淡水河を遠望でき、また淡水の美しい景色が見られます。対岸の観音山の旧称は「八里坌山」、「興直山」といい、後の「観音山」とは異なる呼び名です。

一説によると、観音菩薩が仰向けに寝転んでいるように見え、最高地点が観音様の下あご、下部のくぼみが眼窩、続いて額から海へと入っているおり、全体的に見れば見るほど観音様の横顔のように見えるということからこの名がつけられました。また別の説では、山の上の観音菩薩を祀った寺院が有名であることから、この名がついたと言われています。

元の大門境界石とプルメリア

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日本統治時代に改めて開設された淡水税関は、その敷地の境界に石碑を立てて表示がされています。これが「淡水税関所属地」境界石の由来です。台湾の光復後、総税務司署長レスターは再度税関の敷地を決定し、官舎と淡水税関の用地に数基の「総税務司公署境界石」を再建しました。

現在「淡水税関所属地」の境界石は4基あり、税関博物館の設置準備の当初に、そのうちの1基を収蔵しています。そのほかの3基は2014年に税関埠頭の修復時に掘り出され、その後本館に収めています。このほか「総税務司公署境界石」が3基現存しています。1基は税関博物館のコレクションに、1基は淡水中正路364号前に、1基は本館に収蔵されています。本館では小白宮内に「淡水税関所属地」と「総税務司公署境界石」を数基再建して記念としています。

小白宮の前庭の門の近くには、非常に背の高いプルメリアの木が植えられています。その生命力は旺盛で濃厚な香りを放ち、異国情緒にあふれています。イギリス人が植えたと伝えられ、小白宮に100年以上そびえ続け、今日では新北市政府から「貴重な樹木」として管理されています。

龍柏解説カード

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イギリスが香港、シンガポールなどの地を植民地化していく中で、コロニアル様式の回廊建築が多用されました。小白宮はまさにその典型的かつ代表的な建物です。このタイプの建物の特徴は基礎の底上げ、4つの傾斜した斜面の屋根を持つ寄棟造であり、四方に回廊に似たベランダ、大窓と煙突などがあることです。

小白宮の基礎は石材を積み上げて作り上げられたものであり、地面より約1メートルほど底上げされています。それによって建築の入口の高級感と気品を表現しています。このほか基礎部分外側の周囲には、数メートルごとに四角形の鉄窓用の穴が嵌め込まれています。これは湿気を防ぐための換気をする通風口です。

このほか小白宮の東、西、南の3面には、回廊のようなベランダがデザインされており、建物の面積の非常に大きな比率を占めています。小白宮の正面は淡水河に面し、11個のアーチがあります。東と西側にはそれぞれ4つのアーチがあります。規則的な対称のアーチからは、調和のとれた柔らかな美しさが見られます。

東、西、南の3面のアーチ回廊は雨を防いで日差しを遮るほか、日光の照射する面積を増やすことができます。それぞれの空間が十分な日照と視野を得られる、優れた余暇と暮らしの空間を提供しています。

同時に窓の位置は、回廊のアーチと呼応しています。木製のブラインドで光を調節でき、陽光を遮る効果を強化することができます。

寄棟造の屋根の特徴は排水が便利なことです。屋根の高さを上げたのも室内空間を増やすためであり、屋根裏部屋として使用することができると同時に、断熱作用もあります。

関税展示エリア

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現在の部屋は壁炉を中心としていますが、その内壁は3つの空間に分かれています。うち壁炉が設置されていて比較的大きな部分は、書斎兼オフィスの機能を持っていた、もしくは小型の居住空間であったと推測されています。

台湾は亜熱帯の気候に位置していますが、壁炉を使って暖を取る必要はありません。しかしヨーロッパの建築様式とともに、植民地主義における望郷の念が反映されています。

もう一方の側にある比較的小さな空間は、その内壁がすでに取り壊され、もとの2部屋を繋ぎ合わせて1つの大きな空間を作りだしています。浴室と貯蔵室であったと推測されています。

正面ホール

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現在の位置は小白宮の中心であり、また最大の空間でもあります。左右の両扉は廊下から入口に続いています。対外的な接待の際にパブリックスペースとして使用されていたようで、そのため正式な宴会場あるいは比較的大きな居住空間であったと推測されています。

正面ホール裏側の壁の上には、2か所の非対称の長方形の口が開いています。窓の形状をしてはいますが、実際には窓の機能はありません。なぜならこの壁の口は空間を繋ぐ目的だったからです。元は日本統治時代に増築され、台所として使用されていました。開いた口の大小の形状は、料理の受け渡し口にちょうど一致します。このためこの空間はかつて、宴会場と食堂の機能を併せ持っていました。

建築スタイル展示ホール

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現在の部屋は2枚のドアが通路に通じています。平面にあるべき左右対称の設計からしてみると、この空間はもともと2部屋に分けて使用されていました。主な機能は寝室であったはずです。

内壁を見ると修正時に取り壊して、1間の広い主寝室にしたものと考えられています。また別に1間を回廊上増築して浴室としていました。

アーチの痕跡を見ることができるため、小白宮の本来の容貌は、それぞれ4つの左右対称のアーチ回廊であったと言えます。

チケットブース

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1841年、清仏戦争(しんふつせんそう)が勃発しました。主戦場は基隆から淡水へと拡大し、清朝は戦勝の講和会議の後、台湾の省設置が早まりました。台湾初の巡撫(知事)劉銘伝(りゅう めいでん)は海防の脆弱性と重要性を熟知しており、台湾の海防を強化するための建築物の建設を決定しました。また防衛しやすいように、それぞれの海の入口に砲台を増設しました。

当時ドイツから招聘した技師ヘクト(Lieut Max E.Hecht)は全台湾に10門の新しい西洋式大砲を設置しました。扁額「北門鎖鑰」の大砲台はそのうちの一門です。砲台は淡水河口に隣接しており、河口付近で最も高い観測点でもあります。そのため淡水河と往来する船舶の動向を十分把握することができました。

日本統治時代における淡水の軍事的価値は清代ほど重要ではありませんでしたが、この地はやはり砲兵の射撃の演習場として保留されました。台湾の光復後(日本統治終了後)、滬尾砲台(こびほうだい)は国軍が駐屯するようになり、1985年に国定の古跡に指定され、台北県政府(現・新北市政府)による修繕の後参観を開放しました。滬尾砲台は1886年の竣工以来、1度も戦いに参加しなかったため、現在の保存状態は完全であると言えます。

北門鎖鑰

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滬尾砲台は高所を占拠しているため視界が良く、くわえて周囲の土壁と茂った樹木により位置が隠され発見しにくいという、守りやすく攻め難い特徴があります。防御性の極めて高い「暗砲台(防御性砲台)」です。

砲台は「回」字型の長方形に配置するよう設計されています。西北に位置して東南に向き、淡水河に面しています。外から内に向かって、土壁(母牆)、掘、営門(門)、外壁(子牆)、砲台、被覆(ヒフク)、トンネル、そして広場となります。

土壁はまたの名を母壁(母牆)といいます。大砲の外周に土を盛り、砲台とほぼ同じ高さがあり、遮蔽と防御の機能を備えています。

土壁と外壁の間には溝がめぐらされていて、城砦を保護する堀のような防御的機能があります。

砲台唯一の出入り口は東南にある営門です。扁額には劉銘伝による「北門鎖鑰」の4文字が掲げられています。出入り口は半円形のアーチ型門で、扁額にはすべて観音山(かんのんやま)の石が使用されています。

外壁(子牆)は砲台の主要な壁です。堅固で打ち破れない砲台を造り出すために、劉銘伝は特別に西洋のセメントにより外壁を建造しました。このセメントは当時非常に高価であったため、一部の壁は後から土壁に変更され、増強の為に外側にセメントを塗布しました。

兵舎の上部を覆う泥土を「被覆(ヒフク)」と呼びます。質感は柔らかく、弾丸を吸収する効果が備わっています。被覆上には煙突のような突起物がありますが、これは兵舎の通気口です。

中央広場

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1886年に完成した滬尾砲台には、広場内に元々兵署が建てられていました。その後異なる年代での複数回にわたる改築の後、現在は更地となり、壁が遺跡として残るのみとなっています。

台湾の国軍が駐留の時に、かつて広場には司令台、バスケットボール場などの近代的な施設が設置されていました。現在では司令台もすでに取り壊されています。
砲台の外縁の土壁、外壁上と内部の開放スペースなど、植物の種類はとても豊富であると言えます。北側の外壁は主にセンダンが植えられています。春には紫色の花が開き、枝葉を繁らせます。冬は葉が落ちて、優美な輪郭線を持つ砲台の風景を形作っています。

広場の通路の脇には、主にレンブの木が植えらえています。これは台湾の国軍が駐留している際に補充物資として植えたものです。毎年夏になると地面は落ちたレンブでいっぱいになり、梢にはさらに多くの実がなります。

弾薬庫、スロープ

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弾薬庫は半円形のドーム建築です。これは弾薬を保管する専用の空間で、内側に1枚壁があり、通路と保護空間を隔てています。

弾薬庫にはさらに2つドアがあります。1つは人員が出入りする小さいドア、もう1つは砲弾を運搬する大きなドアです。

砲弾の砲台への運送を便利にするために、別途専門の砲弾用スロープが設置されています。砲弾用スロープはY字型の通路で、たいへん特徴的です。右側の通路は英国製のアームストロング後装砲(Armstrong's Rifled Breech Loader)に通じ、左側の通路はドイツ製のクルップ後装砲(Krupp Gun)に通じています。

北西側主砲座

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当時劉銘伝は英国商ジャーディン・マセソンを通じ、外国より全台湾で10門の新たな西洋式大砲を含む、31門の大型大砲を購入しました。

当時滬尾砲台には12インチ、10インチの英国製アームストロング後装砲が各1門、8インチのクルップ後装砲が2門あり、砲座は海に面する両側に集中して配置されていました。

最も大型の12インチのアームストロング砲は西北に設置されています。360度円型回転式砲架を用い、射角は淡水河口と北側の海岸を全面的にカバーすることができました。しかし現在現存しているのは砲架の軌道の遺跡のみとなっています。

砲口前の外壁は湾曲して下にくぼんでいます。これは弾道の発射に対応するための設計です。台湾軍が駐屯していた時期は、砲座前側に機関銃の砲座が増設されていました。

西側主砲座

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ドイツ製のクルップ砲とイギリス製のアームストロング砲は、19世紀の中・下葉時には非常に有名な近代的大砲でした。口径12インチのアームストロング砲と比べ、口径が8インチのクルップ砲は半円回転式砲架を採用し、軌道の遺跡は逆に非常に小さく、射角も比較的狭いものでした。

滬尾砲台の4門の砲座は、すべて後装砲に属しています。後装砲が前装砲と異なるのは、後装砲が砲の後ろから砲弾を装填し、砲閂(ほかんぬき)を閉じて初めて発射できます。

後装砲の砲兵は砲胴の後ろ端に立つため、位置がさらされにくくなっています。砲座となりの外壁には数個の砲弾型のくぼみがあります。これは砲弾の準備に用いられたものです。

北側甬道

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甬道とは子外壁の内側の半円形のトンネルを指します。兵士の寝室、貯蔵室、弾薬庫や日常の生活空間として用いられていました。甬道はお互いに通じており、作戦時の兵士の手配の機動性を備えています。

台湾軍が駐屯している時期には、北東側に厨房と浴室が建設されていましたが、今はすでに取り壊されて本来の姿が復元されています。甬道の材料は石を壁の基礎としています。材料は唭哩岸(きりがん)の石が多く、観音山の石は少数です。その上に再度赤れんがにて半円にまではならない湾曲のアーチを作り、トンネル内に直接屋外の空気を流通させるためにレンガのアーチ上に一定の間隔で丸い穴を穿ちました。

東南側甬道

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甬道のアーチボールトに用いられたレンガは、清代に常用された燕尾磚と呼ばれるレンガです。サイズは西洋のレンガより小さ目で、側面には焼成斑を見ることができます。

甬道の内側の両側それぞれに一列の小さな穴があります。その正確な機能と作用は今となってはわかりませんが、一説には当初施工時に石積みの上部アーチ型の屋根を作る際に、足場を組むために使用されたと考えらえています。

また別の説によると、壁の上のくぼみは台湾軍が駐屯した時期、地面が湿度により湿っていたために木の板を設置して区画を分けて、ハンモックに用いていたとも言われています。現在一部のトンネルのスペースはすでに展示場所として整理されており、砲台に新たな風情を与えています。

警備室

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1858年の「天津条約」と1860年の「北京条約」を締結後、滬尾(こび)は台湾の通商港の1つとなり、列強はこれにより内陸航行権を享受しました。1862年には正式に関税の徴収を開始し、1863年には英国人ウィリアム(John William Howell)が滬尾税関の初の税務官となり、西洋人によって台湾の税関が掌握される時代が始まりました。

滬尾税関は清代の台湾で初めて対外的な貿易を管理する関税機構です。また、雞籠(基隆)、安平、打狗(高雄)などに分関がありました。日本統治時代には淡水港の堆積が日増しに悪化したため、税関の本関は1916年に淡水から移転し、1921年には基隆港に移されました。

1945年台湾の光復(日本統治の終了)後、淡水税関埠頭は現在の政府の管理下となり、その後海光芸工隊、河捜(沿岸警備隊)、海軍海蛟四中隊と陸戦隊警三営警七連などの台湾軍の各部門が駐屯し、鉄筋コンクリートの施設を増築しました。

2000年6月、新北市政府は淡水税関埠頭の市指定古跡指定を発表し、2014年に文化公園として外部に開放しました。埠頭河岸の視野が開けた美しい風景は、観光客が淡水の落日の残光を眺める最高の観光地となりました。

洋館

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淡水税関は関署(公務処理を行う機関)、官邸と埠頭の区域に分かれています。関署は1869年に建設され、事務所と船員の宿舎、倉庫などの建築物がありました。現在の紅毛城の下の駐車場に位置していまいたが、現在はどこにも見ることができません。

官邸区域は1866年から1875年の間、税務司官邸と宿舎が続いて建設されました。現地の人々から「小白宮(リトルホワイトハウス)」と呼ばれる「清末期淡水関税務司官邸」はこのなかで現存する唯一の建物です。

埠頭区域は清代から徐々に建設が始められ、その建設は日本統治時代に完成しました。当時淡水港の埠頭区域は、滬尾街の後半に集中しており、現在は「ダグラス洋行」の向かいにあります。商戦の停泊する境界線は、今日のMRTの駅の西側からフェリーの船着き場まで続き、淡水税関の所在地からはさらにまだ距離がありました。

1893年税関関署前方の河岸には、徐々に船の停泊に使用するきゅうすい(汲水:水をくみ上げること)構造が出現するようになりました。関署と街を隔てて相対する河岸区域は、現在税関埠頭公園区域の主要範囲となっています。

B、C棟倉庫

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日本統治時代初期の淡水河岸付近の埠頭には、すでに多くの突出した桟橋式のきゅうすい(汲水)があり、上陸場所と荷卸し場所となっていました。当時税関埠頭と滬尾漁港(淡水第一の漁港)の間に、大きな三角州がありました。1900年代になり埋め立てが始まり、淡水の河岸は次第に現在の容貌へと変化していきました。

税関埠頭の埋め立てが完了するとすぐに倉庫、宿舎、検査所などの機能を持つ数棟の建物が増築されました。

電気機械室

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今日の税関埠頭は、淡水税関関署に面した、英国領事館官邸の埠頭エリアを指します。保存範囲は東段、中段と西段に分けることができます。東段埠頭は観音山石(かんのんやませき)、卵石が配合されたコンクリートと三合土などで敷き詰められています。中段は主に唭哩岸石(きりがんせき)です。西段は観音山の石が交互に敷き詰められています。埠頭の堤防側にはボラード(船を繋留するための柱)が設置されています、外観は四角柱と円柱形です。

以前台湾軍が税関埠頭を管理していた時代には、一般に開放されていなかったため、人々が内部の様子を窺がうことは困難でしたが、逆にこれによって河岸の静かで美しい景色が完全に保たれています。この地は広さ200メートル以上の後背地であり、老街(古い街並み)から漁人埠頭の重要な接続ポイントとなっています。また淡水河の夕日を眺める重要なポイントでもあり、完璧な後背地と特殊な歴史的背景の繋がりがあります。

ダグラス洋行

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淡水の中正路、老街(古い街並み)の後方に位置する「ダグラス洋行」((Douglas Lapraik & Co.)は19世紀末に台湾の開港と北台湾の輸送の発展の歴史的証人です。建物は前棟と後棟に分かれており、当時の空間の使用機能から命名されています。例えば前棟の「第一検査場」、後棟の「輸入品倉庫」です。

洋行の前棟の建築物は正面の広さが五開間のレンガを積み重ねた構造で、屋根は伝統的な仰合瓦です。その重要構造は正面のレンガのアーチ、両側の石を積み重ねた妻壁、内部の西洋式木造構造アーチの3つに分けることができます。

梁の構造とアーチの2か所を含むレンガアーチの構造、両側の妻壁は耐力壁の系統に属します。木造構造のアーチは山形の構造と木造アーチが組み合わされています。うちゴシック様式の木造アーチは、現在台湾全土でここでのみ見ることができます。

後棟の建築物は長方形の広間型の建築です。本体構造は小屋組、柱、壁と基礎から構成されています。小屋組は特殊な形式の小屋束式の木枠と小屋筋交いで構成され、屋根の重量を支える重要な構造です。このほか、東西両側の妻壁と北側の壁はイギリス積みによるレンガ壁で、南側の壁は9つのレンガアーチの壁で構成されています。

ダグラス洋行の修復は2013年3月に完成し、洋行の過去の歴史を受け継ぎ、淡水市街地の歴史的容貌と記憶を伝えています。淡水老街に連なる埔頂エリアの文化資産の新たなハイライトとなっています。

淡水芸術工坊

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淡水中正路298番に位置する淡水芸術工坊(Tamsui Art Gallery,TAG)は、新北市初の公共グリーン建築です。台湾「ダイアモンドクラス」のグリーン建築に選出されたこともあり、元は日本統治時代の4棟が連なる日本式の警察官家庭用宿舎でした。2011年に「淡水河口芸術旅行ネットワーク」の北区フラグシップ計画が完成・開始し、淡水の歴史街地区の新しい芸術と文化創造の空間となりました。

本建築の外観は3階建ての鉄筋建築です。正面は大面積の景観窓を採用し、十分な陽光を引き入れることができると同時に、淡水河の美しい景色が一望できます。屋上の形状は煙突に似た銅製の円すい構造とソーラーパネルで、空気の対流効果を生み、夏の蒸し暑さを抑えて夜間の照明を提供し、電力消費量を節約する機能があります。

このほか古い建築物の歴史とのつながりを保つために、元の日本式宿舎から取り外した瓦を再度新しい建物の室内装飾に再利用し、本建築物の時代性とユニークさを表現しています。

現在1階は主に文化創造商品の展示販売エリア、2階には飲食エリアと多機能舞台が設置されています。3階には淡水古跡博物館が定期的に企画した各タイプの文芸展覧、講座と市教育探検活動が行われています。

芸術造景を通して創意的な思考、空間の再利用と活性化などの模式により現地の芸文生活の品質を向上し、周辺の住民、商店、観光客がお互いに交流し合うことにより、淡水の文化産業と観光レクリエーションの全体的な発展と活性化を図っています。

滬水一方(こすぃいっぼぅ)

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「滬水一方芸文空間」は淡水漁人埠頭の麗宝ショッピングセンターの3、4階にあります。新北市政府は淡水漁人埠頭のレクリエーションの特色を強化し、観光サービスのレベルを向上するために、民間参加の公共建設法を推進。BOT方式で企業が建設を完成しました。福容観光ホテルとショッピングエリアが付属したフィードバック施設となり、2011年に完成後、淡水古跡博物館により経営、管理されています。

滬水一方基地は2つのフロアがあります。面積はそれぞれ240坪と360坪です。以前には文芸展示空間と文化パークエリアとして、現在3階は積み木の展覧をテーマとした空間となっています。シリーズでの豊富で素晴らしい積み木作品のほか、場内では様々な種類の積み木プールと積み木教材が提供されており、訪れた人々が自由に創作体験し、積み木の楽しさを感じることができます。親子が一緒に遊べるほか、学校やクラブ、学童保育等教育機構による社会見学に適しています。

淡水街長多田栄吉旧居

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多田栄吉は日本統治時代の淡水の街長です。兵庫県神戸市の出で、家族は代々著名な地主でした。多田栄吉は一族の長男であり、子供のころから実業家となることを志していました。

1897年に初めて台湾を訪問し、1905年に何度も繰り返し訪問後、淡水で淡水税関のバーテンダーとなりました。1919年に「淡水興業組合」を設立し、半農半漁の淡水の人々に家庭での副業の従事を奨励しました。

1930年から1933年の間、第4任の淡水街長に任命され、淡水の道路建設の推進、図書館の改築と学校の設立などの公共事業に尽力し、当時の淡水の発展にきわめて大きな貢献をしました。

多田栄吉の旧居はもとの清朝の学海書院の学田(学校経営の基金とするための官田)であり、後に日本学産財団の産業となりました。この建物は1934年に建造され、全淡水、全台湾でも比較的早い時期に水道水を引いた民家となりました。このことは、この建築の人文的意義のほかに、地域の発展史上でも重要なマイルストーン的地位をもたせることとなりました。

台湾の光復後(日本統治の終了後)、多田栄吉は6,000元でこの建築を売却し、これ以後長期に渡り私人の所有となりました。人が居住していたため、家屋の修繕が非常に重視され、建築物の寿命を延長するのに実質的に良い効果がありました。

しかしながらこの家屋は経済部が日産(日本人の財産)の名義で国有化したため、所有権の登記は経済部の名義となりながら、土地登記謄本の証明があることとなりました。居住者と所有権を擁する経済部による何回もの協議の結果、古跡として保存することに賛同し、市政府により管理されることとなりました。

南門エントランス

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紅毛城(こうもうじょう)古跡公園の入口に着いたら、まず目に入るのは大門の隣、緑色の蔦が絡まる南門です。この中国式の石のゲートは、清朝初期に残されたものです。

1724年淡水の同知(副知事)である王汧(おう けん)が紅毛城を改築した際に、東、西大門と南、北の小門を増設しました。しかしイギリスによる租借の後、周囲の壁を改築した際に東、西、北の三門を取り壊したため、南門だけが残って主要な出入り口となりました。

ブリーフィングルーム建築物

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この建築は英国領事館の使用人の宿舎でした。1933年建築士J. C. Wynnesがデザインした四連棟宿舎で、1934年4月25日に改修が完了しました。内部は4家族が使用できるようになっており、各家庭用に応接間、寝室と厨房などの同じユニットの構成となっています。

しかしながら後の使用時に間切りの多くは取り壊され、厨房も貯蔵室として使用されるようになりました。共同トイレはもともと別に、囲い壁際に設置されていましたが、現在はすでになくなっています。

9棹の国旗エリア

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紅毛城の9棹の旗は、紅毛城の300年以上の歴史の変遷を代表しています。その間にスペイン、オランダ、明朝、清朝、イギリス、日本、オーストリア、アメリカと中華民国の管理と代行管理を経ています。

かつて1628年から1980年に、9か国の国家や政権の旗が紅毛城の空にたなびきました。最も古くはスペイン人で、1628年に最も早くここに来て聖ドミンゴ城(Fort San Domingo)を建設しました。1642年オランダ人がスペイン人を台湾から駆逐すると、スペイン人が壊した元の城砦を離れて元の住所付近にアントニオ城砦(Fort Antonio)を新たに建設しました。これが現在の紅毛城です。鄭氏時期(明朝から清朝初期)には淡水河口に軍が駐留し、紅毛城は穀物倉として用いられました。1742年清朝が紅毛城を改築し、4つの門を増築しました。

しかし「天津条約」締結後、滬尾(こび)は開港通商を開始し、清朝は領事裁判権と関税自主権を失いました。1867年イギリスと清朝の間で永久租借権が締結され、紅毛城はイギリスの領事館となりました。太平洋戦争が勃発し、1941年末に淡水の英国領事館は日本に封鎖され、日本国籍の従業員が第二次世界大戦の終結まで代理で管理していました。

1948年イギリス人が紅毛城に戻り、1972年イギリス領事館が紅毛城を撤収し、大英帝国協会員国であるオーストリアに代行管理を委託、同年にオーストリアとの断交後にアメリカへと代行管理を委託しました。1979年に中華民国とアメリカが断交後、政府の全力での交渉後、1980年に正式に国有化されました。

紅毛城主城広場

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1628年スペイン人は淡水に到着すると、軍事的な考慮から淡水の河口に「聖ドミンゴ城」(Fort San Domingo)を建設し、軍事、政治、貿易、布教の拠点としました。1642年オランダ人が北上し、鶏籠(基隆)へと進攻してスペイン人を破ると、破壊された城のもとの敷地付近に新たな城「アントニオ要塞」(Fort Antonio)を再建しました。この四角形の城こそ、すなわち淡水紅毛城の起源です。当時の現地の人々がオランダ人を「紅毛」と呼んだことが、「紅毛城」の名前の由来となっています。

紅毛城の主城は「外石内磚(外側は石、内側はレンガ)」の工法で構成される、堅固な四角形の城砦です。内部は上下2階層に分けられている、半円筒形のアーチ構造の建築物です。上下階のアーチの方向は互いに垂直で、主城をよりいっそう堅固なものにしています。

イギリス人が進駐した後、とがった屋根を平屋根へと変えたほか、東北と西南の角にあたる位置に隅櫓を増築しました。2階の南側に増設されたバルコニーは、事務処理に来た人々への利便のために増設され、淡水河と観音山に面したバルコニーには姫垣と銃眼を設けました。これは地形の利を活かして防御と防衛を容易にするためです。堅固な構造に防御と防衛の機能を加えて設計され、紅毛城は淡水河口の守りやすく攻め難い軍事拠点となったのです。

実際には、当時オランダ人の建設した紅毛城の外観は、現在と少々異なります。改修前の壁は灰白色でしたが、イギリス人が租借後、続けて2階のバルコニー、最上階の隅櫓を増設し、外壁も赤色に塗り替えたため、現在見ることのできる赤い色の城となったのです。

紅毛城主城1階室外の空き地

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主城の平面は正方形で、各辺は約15.25メートルです。西側は台湾海峡を向き、淡水河から海への出口を守り、南側は淡水河を俯瞰して観音山を遠くに眺めます。主城の壁は非常に厚く、約1.9メートルあります。壁の内部は「外石内磚」の工法で、内側近くの壁は赤レンガでアーチがくみ上げられています。外側の壁には泥や灰で接合され積み上げた石が多用されています。

壁の最も外側の層はもともとオランダ時代のもので、灰白色に塗り掩蔽性を高めていました。イギリス租借時代になると、ビクトリア朝の気風に合わせて城全体が朱紅色に塗られました。考証によると、塗料の産地は南洋のインドネシアのバタビアで、石は現地で採取されたものです。

主城の高さは約13メートルで、内部は上下の2階層に分かれています。底層には2個の並列した東西に向い開口しているドームがあります。上層にも同様に2つの並列したドームがありますが、アーチの方向は下層と異なり南北方向となっています。上下2層の階のアーチは互いに90度に配置されていて、力学の原理を応用して壁の結合力を高めています。主城の東側と北側には非常に深い空堀があります。

テニス場

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テニスの発祥は14世紀のフランスですが、最初期のローンテニスの発祥はイギリスのビクトリア朝です。イギリス人はイギリスでテニスをするだけでなく、台湾で紅毛城を租借した際にも、テニスでレクリエーションを行いました。

1860年イギリスが紅毛城を租借してイギリス領事館とし、紅毛城の東側に領事の住居を増設しました。これが英国領事官邸です。紅毛城と英国領事官邸の間には広い芝生がありますが、ここがイギリス人が当時テニスをしていた場所です。領事館官邸の回廊でアフタヌーンティーを楽しみながら、テニスを観賞するという英国スタイルを十分に備えています。

紅毛城古砲エリア

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パークエリア内の火砲は、そのほとんどがイギリス人が淡水やその他の地域で発見し、装飾品としてコレクションしていました。ここで見ることができるのは、清朝の中国式とイギリス式の大砲です。

清朝の大砲は「觔(斤)」を単位としていました。500觔、800觔、1200觔など、上部に清嘉慶の字が鋳込まれています。さらに清朝の嘉慶時期、滬尾に駐屯していた海軍守備営所が残した大砲には、砲身に「嘉慶十八年夏 奉 憲鋳造台湾 北路淡水営大砲 一位重八百觔」と鋳込まれています。

イギリスの砲身の短い大砲は、その砲身に王冠のマークを見ることができます。砲身の後ろ部分には固定用の輪があり、ロープを通すのに用いました。この大砲は船上で使用し、近距離用の砲身の短い大砲であることを知ることができます。

この種類の大砲は打った後の反動が強く、2人でロープを引張り固定する必要があります。前から火薬を装填した後、砲弾を詰めて点火します。一般的に前装砲と呼ばれています。

不注意な操作により腔発(こうはつ、砲弾が砲身内で暴発する)が発生した場合、砲身後後部が爆発しました。このため、園内には1門前部分が爆発した大砲があります。当時のオランダ人が離れる前の破壊行動からすると、非常に珍しいものです。

英国領事官邸外

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光緒年間(1875~1908)にイギリス人は領事官邸の増設が必要と考え、1877年に紅毛城の主城の東側の空き地に1階建ての木造建築の英国領事官邸を建設して、公務と官邸を分けました。しかし湿気と蟻による被害で、1891年に2階建ての赤レンガの建築へと再建されました。

領事館全体は上下の2階層に分かれています。アーチ回廊式の洋館として、典型的な英国コロニアルスタイルの建物です。官邸の前庭には大面積の緑地が残されており、主な建物がその後ろにさがり、独特のエレガントさを醸し出しています。紅毛城の剛毅な軍事的風格とは全く意を異にすると言えるでしょう。

領事官邸正門の両側の柱には計12のレンガ彫刻が施されています。その中にレンガに刻まれた「VR1891」の字が見受けられます。VRはイギリスのビクトリア女王の略称(Victoria Regina)です。1891年は領事官邸が落成した年内です。

最も特別なのは、レンガ彫刻にスコットランドを代表する花である「アザミ」が彫られているものです。英国を代表する花である「バラ」とのレンガ彫刻は、優雅で目を引くものがあります。外壁のひさしはレンガを積み重ねてデコレーションとしています。2階の回廊には外側に蛇腹線があり、両者ともとても華麗で美しい外観です。

領事官邸は基礎を持ち上げており、その中に中国スタイルの「銭紋」通気口が嵌め込まれています。このようなデザインは通風機能を備えるだけでなく、同時に「大富大貴」のおめでたい意義があり、中国式の建築によくみられる手法です。

領事官邸の屋根のデザインは、「四坡式斜屋頂(寄棟造)」と呼ばれます。屋根に敷かれた閩南紅瓦が主な特徴で、排水に便利なだけでなく、室内空間の高さを上げることができ、断熱作用が発生する、建築手法上工夫が凝らされています。

紅毛城主城1階の地下牢と放封院

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主城の1階に入る前に、トイレ、浴槽、厨房と巡捕(警官)の居住空間があります。これらはイギリス人が紅毛城に駐在した後増築されたものです。領事裁判権を行使するために、イギリスは1階の元は2部屋の大空間を4つの小さな牢屋に変更しました。台湾で犯罪を犯した外国人が後日、本国へ裁判の為に送還されるのを待つために、暫定的に集中して居住していました。

地下牢のドアの上には食事を届ける口とのぞき穴を見ることができます。人権の保護と尊重を最も貴ぶイギリスが室外に放封院と呼ばれる犯罪者の活動空間を設けたのも例外ではなく、犯罪者が太陽を浴びて運動する場所としていました。

紅毛城主城2階

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オランダ人が紅毛城の主城の2階を建設した際には、とても広い空間に1本柱があるだけでしたが、領事と書記のオフィス、プライベートルーム、寝室、厨房と応接間として使用するために、イギリス人の駐留後に4つの空間へと仕切られました。

紅毛城の修復工事中偶然に、ぞれぞれの窓のベース部分の、赤レンガの下の見つかりにくい場所に凹みが発見されました。これは大砲を設置したり、砲車を回転させたりする空間であり、オランダ時代にはすでに配置されていたと推測されています。このほか、壁の内部で純粋な泥で積み上げられた干しレンガが残されていました。上部には泥ともみ殻、封鎖されたドアがありました。

このドアは英国初期、厨房と客間からの出入りに便利なように、ベランダを増築した後封鎖されたと推測されています。このほか文書用の金庫、鍵箱、大金庫、文書の焼却炉、消火器とベビーカー等を含む、すべてイギリス人が残していった遺物です。

2階の入り口左側には、とても急な木製のはしごがあり、屋上のプラットフォームに上ることができます。屋上の排水に便利なように、プラットフォームの中央は少々隆起していています。屋上の周囲には城壁があります。これはイギリス人が増設したもので、その特徴はレンガ壁の上に石の重ねが加えられていることです。

全体からすると、紅毛城の主城は、オランダとイギリスの古城の建築スタイルを結合して建設されています。その構造は堅固で外観は勇ましく、淡水河口にそびえ立ち、台湾の歴史の風雪と真実を証ししています。

英国領事官邸1階回廊

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領事官邸の1階の回廊には湾曲型のアーチ、2階の回廊には半円形のアーチが採用されています。回廊は雨風を防ぐ効果を兼ね備えています。ここからより強く、当時の官邸内のゆったりした時を感じることができます。官邸の回廊の欄干には緑色の釉薬の花瓶が欄干として採用され、中国の陶芸と西洋の花瓶が結合した欄干の特徴となっています。

顔を上げて領事官邸の1階をよく観察してみてください。東西両側の回廊の天井には特殊な天井板の方法が採用されています。ウェーブした鉄板のアーチ構造を、「H型鋼」の上に組んでいます。これは極めて特殊な構造で、19世紀末に出現した建築技法であり、同時に防火機能を兼ね備えています。鉄筋コンクリートが普及し運用される前の、当時の最新の建築技術といえるでしょう。

英国領事官邸1階入り口

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領事官邸内には多くの部屋があり、領事とその家族の居住に提供されていました。官邸の建物は南向きで、空から見下ろすと逆T字型をしています。

1階は約1メートルの基礎の上に建てられ、入口から室内に入ると、手すりのある精巧な彫刻の螺旋大階段があります。1階の西側には客間と書斎が、東側には食堂と配膳室があり、後ろ側には客人用の洗面室と使用人の部屋があります。2階には数部屋の大寝室と、数室の洗面所、客間、食堂と主な寝室があります。各部屋すべてに壁炉(かべろ)が設置されています。

うち客間、ホールと食堂の床の幾何学模様のモザイクレンガは、外国から輸入されたモザイクレンガで、足を止めて鑑賞する価値があります。

英国領事官邸1階食堂

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領事館体内の食堂は暖かくエレガントにデザインされています。食堂の後ろに別途パントリーがつなげられています。当時の階級により厳格に管理されていた官邸内で、使用人は自由に領事の空間に入ることはできませんでした。

このため、シェフは厨房で料理が完成した後、使用人によりパントリーまで運ばれ、料理を提供するときに再度料理の送付口まで届けられ、食堂に従事する使用人により料理が給仕されました。

壁炉の隣と食堂のドアに呼び出し用のベルがあり、領事はボタンを押すだけで中央交換台側のベルが鳴り響き、指示された地点の番号札が同時に落ちてきて、ハウスキーパーは領事がいる場所を知ることができ、即時にサービスを提供しました。

英国領事官邸1階客間

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イギリス人が離れる際に大部分の家具を持ち去ったため、現在みられる家具と装飾は当時の写真と文献を参照にしてその様子を模倣しています。

唯一1891年から現在まで変更されていないのが、足元で踏まれている床のタイルです。ビクトリアン・タイルと呼ばれ、モザイクレンガやはめ込み式床タイルと呼ばれます。特徴は土と顔料を混合した後に再度焼くことにより、全体の高さと色が一致しているため磨耗や退色に強いことです。この種類のタイルは英国ではすでに生産が停止されているため、さらに貴重なものとなっています。

ドラム式の大きな花柄のカーテンは当時の流行の色です。室内には壁炉が設置されていますが、高い緯度の国から低い緯度の地域に赴任した領事からすれば、壁炉は寒さを防ぐためではなく、故郷への思慕の念を投影しており、同時に湿気防止と除湿効果が得られます。

客間と食堂の電動の天井扇風機は1941年にイギリスのG.E.C.Kingswayにて生産され、現在に至るまで保存されています。

英国領事官邸1階書斎

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客間と壁を隔てた先の書斎の床タイルの使用は明らかに異なり、イギリス人の個人と公共空間に対する明確な区別を十分に現しています。一般的に客間、ホール、食堂などの公共空間は主人のスタイルと身分を表し、装飾上で書斎や寝室などの個人的な空間よりも華やかです。このため書斎の壁炉の様式が、客間よりもかなりシンプルであることを発見できます。

英国の主権を象徴する紋章も、イギリスが紅毛城を租借していた間、南門と紅毛城の主城上に高く掲げられていました。もともとの紋章はイギリスへ戻る際に持ち去られ、現在書斎に展示されているのは複製品となります。

英国領事官邸1階使用人呼び出しベルと使用人用スペース

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空間階層を重視するイギリスでは、主人と使用人の区間も厳格に分けられていました。英国領事官邸は逆T型の建築内で、前方の2階の建築は主人に属する空間でした。後方は使用人のみが活動できるスペースで、主人に必要がある場合を除き、使用人は主人のスペースに足を踏み入れることはできませんでした。

同時に、入口の階段は主人のみが使用できました。主人と使用人を繋げる通路に到着すると、別途で比較的狭い階段があることがわかります。官邸内の使用人はこの階段のみで上下階を移動し、主人へのサービスを提供していました。

領事官邸の1階の使用人スペースには呼び出し用のベルが設置してあります。これは主人が使用人を呼びだす際の一種の呼び出しベル用の交換台でした。呼び出しベルのボタンはホール、客間、食堂、寝室などに設置され、主人が各部屋でボタンを押すと、交換台のベルが鳴り響き、各部屋を代表する番号札が同時に落下してきて、どこですぐにサービスが必要なのかを使用人に知らせていました。

甬道の建材

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甬道(子外壁の内側の半円形のトンネル)の下部の建材は砂岩の一種に属す唭哩岸石です。甬道は湿気が比較的多く、石材は暗く湿った環境に長年置かれていたため、青苔が付着し、青黒くなっています。正常な状況下であれば、石材には石英(二酸化ケイ素)の成分がふくまれているため、陽の光に照らされると、きらきらと輝く光沢があり、ぴかぴかとして非常に美しです。現在はすでに採掘が禁止されていますが、初期の台湾の建築における重要な建材の1つです。

甬道構築の構造

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甬道(子外壁の内側の半円形のトンネル)の上部建築には、レンガを建材として採用し、レンガと泥や灰を積み重ねてアーチ構造の建築スタイルを造り出しています。レンガはアモイ製の手作りレンガで、レンガとレンガの間には三合土(もち米、黒砂糖、石灰)を粘着剤として採用しています。加えてアモイ製のレンガ特有の上下に溝がある構造で、連画面の摩擦力を増加させる、まるで木造のほぞのような建築となっています。アーチ型の建築構造により、上部を覆う約2メートルの厚い土と大樹を支えることができ、耐震構造の建築工法でもあります。

甬道の穴の遺跡

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甬道(子外壁の内側の半円形のトンネル)の両側の壁面の唭哩岸石に対称の長方形の穴があります。穴は甬道内部までは貫通していません。合理的な推測としては、清朝時代に砲台を建造した際に、アーチ型の屋根を構築するために、作業員が足場を組んだ際に残された跡であると考えられます。歴史の変遷により、砲台は清朝、日本統治時代、国民政府時代を経て、軍隊が駐屯時した時期に、甬道は兵士が居住する兵舎となりました。当時は両側の穴を用いて木の棒を設置し、上部は兵士が寝る際の大型のざこ寝用の寝室となり、下部は通路と軍備室となっていました。

甬道の仕切り

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清朝の時代に子壁を修繕した際に、甬道(子外壁の内側の半円形のトンネル)はいたる所に延びていたと考えられています。仕切りのない甬道には、、兵士は行ったり来たり通り抜けたりすることができました。
人の姿は外部に露出することはなく、安全を考慮した設計でした。
現在の仕切りは、国民政府の軍隊が実際の運用上の必要性のために、取り付けたものだと考えられています。この壁ははっきりとわかる通り、コンクリートを用いて構築されています。壁面に露出しているレンガも、アモイ製のレンガとは異なっているため、国民政府の軍隊が駐屯していた際に修繕されたと推測されています。理由は機密性と上官と兵士の階級の区分のためであり、特にスペースを仕切ったものと考えられています。

木製の格子式引窓

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木製の格子式の引窓です。木材は修繕時に新たに構築されたと推測されていますが、建築スタイルは以前のまま修復されています。この種の木製の格子スタイルの引窓は、地元の初期の民家によくみられる建築スタイルで、日差し、空気と風量を調節できます。砲台は西洋式の構造で、窓は中華式の構造であり、中華と西洋が合わさった証明でもあります。窓の格子の数は奇数に配置されていて、陽宅(住宅)の風水の吉数にも一致してます。(風水で奇数は陽、偶数は陰とされます。)

甬道の空間利用

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滬尾砲台は清朝により残された西洋式の砲台で、非常に完璧な形状で残されています。1985年に国家二級古跡に指定され、現在は国定古跡に改名された、非常に貴重な歴史的建造物です。人々の参観に開放してから、多くの訪問客を惹きつけています。子壁の甬道内の常設展のほか、不定期で各スタイルの展覧会を開催しています。古跡本体を破壊しないために、展示品を掛けるために用いられる鉄のフレームは、とある特別展覧会の時に構築されたもので、屋根を支えるために用いられているわけではありません。

理学堂大書院

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理学堂大書院は、淡水と関係の深いマッケイ博士(George Leslie Mackay)により建設されました。1880年、マッケイ博士は初めてカナダに戻り、8年間にわたる台湾での宣教の成果を故郷で報告しました。報告は故郷の人々から絶大な信頼を受けながらも、故郷の人々は学生が訓練を受ける際に「榕樹(ガジュマル)のもとに座り青空を天井として、青草を座敷とする(屋外での教育)」ことに耐えられませんでした。
オックスフォード群の人々は惜しげもなく寄付し、マッケイ博士に、台湾に持ち帰り学校を建設させました。マッケイ博士はこの寄付を運用して土地を購入し、自ら設計、工事を監督し、近代的な学校を建設しました。ここは台湾初の西洋式学校であり、1882年7月に竣工、開校し、「理学堂大書院」と命名されました。オックスフォード群の人々の寄付を記念して、英語名を「Oxford College(オックスフォードカレッジ)」と名付けられ、のちの人々からもオックスフォード学堂と呼ばれています。
理学堂大書院はもち米、黒糖、石灰と砂を混ぜ合わせて、コンクリートに替わる建材としています。アモイから運ばれてきたレンガを使用し、建物の方位は坐北朝南(入口が南向き)となっています。台湾の四合院を模して建てられた、中華と西洋が合わさった建物です。理学堂大書院は心理大学の校内に位置し、付近には紅毛城、清末期淡水関税務司官邸、淡水女学堂、馬偕墓地、外僑墓地と八角楼などがあり、どれも極めて豊かな歴史的意義と芸術的価値のある建築です。

公司田渓程氏古民家

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「公司田渓程氏古民家」は新北市淡水区内にある「歴史的建築物」の伝統的な民家です。古民家の建築年代ははっきりとわかっていませんが、学者や専門家の研究と判定によると、1884年の清仏戦争前であると考えられています。清仏戦争の「滬尾の役」の際、清朝軍がここに兵を駐屯させ、フランス軍を囲い込み勝利しました。古民家は淡水区淡海新市鎮の区画整理されたエリア内に位置し、淡水の100年近い閩南人の建築の特色と居住環境の人と文化の息吹を伝えています。公司田渓一帯の開発はオランダ統治時代までさかのぼり、程氏の古民家は該当する地区でたった1つ残された宝物のような農家です。周囲は竹や葦で囲まれ、溝には水が流れる、以前の農業社会の三合院の形式の、代表的な建築です。完璧に保存され、淡水地区の開発の歴史を見届けています。
新北市淡水レジャー農業協会は程氏古民家に駐在しているこの期間、すでに芸文体験、郷土の歴史教育と旅行スケジュールなどをこの古く素朴な三合院の空間にもたらし、程氏古民家を新北市の生活の美学と文化と創意あふれる芸術基地としています。

淡水龍山寺

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台湾には有名な龍山寺が5堂あります。それぞれ淡水龍山寺、台北艋舺龍山寺、台南龍山寺、鳳山龍山寺と鹿港龍山寺です。淡水龍山寺は1858年に建設され、主に観音菩薩が祀られています。
初期には寺の前方に広場があり、裏手には花園があって、付近には淡水を代表する市場がありました。1884年清仏戦争の期間に、観音菩薩が顕現し、淡水の人々の平安と無事を護ったと伝えられており、この寺に神仏による奇跡の色彩を添えています。
淡水龍山寺は東向きに建てられ、素朴な造形とすっきりとした閩南伝統の建築です。平面的な配置は狭く長い形状を表し、石の彫刻、木の彫刻、神様の塑像は非常に美しく精巧です。古い市場の場内の、住居と商店が混在するエリアに位置しているため、淡水龍山寺はまるで一日中日差しがささない市場の中にあり、訪問者の注意を引きにくい場所にあります。寺の東側の入口と南側の清水街は隣りあわせで、長きにわたり固定した小売商のブースが占拠し、もともと道幅の狭く小さい清水街を、小売商が集まる市場にしています。それぞれのブースのどれもが日差しと雨除けを設置してぎっしりと連なり合っているため、清水街はまるで太陽の日が差さない「暗黒仔」になっています。現地の環境と衛生に一部影響を与えてはいますが、このような「暗黒仔」の特殊な街並みの景色は台湾ではすでにあまり見ることができないため、さらに貴重で珍しいものとなっています。

淡水福佑宮

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台湾海峡の潮の流れは予測しにくく、初期の台湾への移民たちは危険な「黒水溝」を超えて台湾に渡らなければならず、運が悪ければ波にのまれてしまうこととなりました。当時の「6人が死に、3人が残り、1人が帰る」の俗語が、海を渡航する困難を描き出しています。このため、移民たちは船に乗る前に、先に媽祖廟で台湾への渡航が順調であるように祈りを捧げ、事業が成功した後に、台湾に廟を建設して還願しました。こうして媽祖は、台湾でもっとも普遍的な民間信仰の対象となったのです。
淡水福佑宮は1782年に建設が開始され、1796年に落成しました。滬尾港は当時台北盆地への上陸港であったことから、多くの異なる戸籍の人々からの寄付を集め、各地の人々の媽祖に対する一致した信仰を反映させました。福佑宮は淡水老街に位置しています。ここは淡水老街の崎仔頂(重建街)の起点であり、滬尾街の中心でもあることから、この廟と滬尾街の発展が極めて密接な関係にあることが証明されています。淡水福佑宮は南向きに位置しています。前方には淡水河を臨み、後方は崎仔頂に寄りかかっています。まさに「前有水為鏡、後有山為屏(前にある水を鏡と為し、後ろにある山を屏風とする)」の、地理的に優れた地形であると言えます。石の彫刻は廟全体の装飾の中で最も複雑で精巧であり、多くは観音石を材料として彫刻が施されています。彫刻のテーマは変化に富み、麒麟、龍、白虎、カササギ、こうもりなど、意義を象徴した動物であり、当時の農村社会の「漁業、林業、耕作、読書」の生活の百態を描写しています。造型は素朴で力強く、生き生きとしていて人々を感動させます。最も特色があるのはレンガ彫刻であり、生活での幸福、豊かさ、長寿を象徴する図案が彫られており、当時の人々が望んでいた生活の目標が反映されています。

鄞山寺

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清朝の寺廟の歴史の上で、定光仏寺は台湾全土にたった2堂しかありません。1堂は台湾中部彰化県の定光庵、もう1堂は淡水の鄞山寺となります。淡水の鄞山寺は1822年に建設され、建物はほぼ完全に当時の面影を保っています。一般の寺廟では非常に保存の難しい屋根の泥塑(粘土細工の一種)も、すべてほぼ完ぺきなままであり、台湾の建築史上において極めて高い研究価値があります。鄞山寺は閩西汀州からの客家の移民の信仰の中心であるだけでなく、同時に移民たちの「会館」の機能をも兼ね備えていました。このため淡水鄞山寺の左右にある護室の一部は客室であり、同郷の人々が一時的に居住する場所となっていました。
鄞山寺の配置は、永定建築の特色を反映しているだけでなく、寺廟は坐東朝西(入口が西向き)に配置され、背後には大屯山があり、まるで椅子に座っているようです。淡水の河口に面し、形体は勇壮で壮観な、風水の伝説にある「ヒキガエルの穴」です。もしかしたらこうした言い方と一致させるために、寺の後方にある左右の空き地には井戸が2個所掘られており、ヒキガエルの目に見立てられています。また寺廟前の半月池をヒキガエルの口としています。いわゆる「後山為屏、前水為鏡(裏手の山を屏風として、前の水を鏡となす)」のすぐれた風水の地です。寺の三川殿の彩獅、虎、麒麟は建築時には絶妙なアイディアがあり、彩獅には「旗」と「毬」、麒麟は「戟」と「磬(寺院で仏を拝む際に使用する銅製の楽器)を遊んでおり、これらを組み合わせると「祈求吉慶(吉祥祈願)」となります。鄞山寺のそこかしこから、先人たちの天の神々と、この土地への感謝を見て取ることはそう難しくありません。

旧英商嘉士洋行倉庫

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1862年に淡水の税関は正式に運営と徴税を開始しました。淡水港は迅速に台湾北部最大の港となり、茶、木炭、樟脳を輸出の主力として、台湾全土の貿易量の6割以上を占めるようになりました。1897年極東地域の貿易の一環とするために、イギリスのロイヤル・ダッチ・シェル社(英商殻牌公司・Royal Dutch Shell plc)が嘉士洋行を買い取りました。続いて倉庫、オイルタンクを増設し、油製品を保管する倉庫としました。また鉄道のコンテナに油製品を搭載しやすいよう、レールを敷設して淡水列車線と接続しました。この場所は「殻牌倉庫」と呼ばれていました。初期には、各種の油製品により強い油の臭気が漂い、淡水の人々から「臭油桟(臭い油の桟橋)」と呼ばれていました。1944年10月アメリカ軍の飛行機が台湾北部を空襲し、オイルタンクにも爆弾が命中して火が付きました。三日三晩焼け続けてやっと火が消し止められ、淡水の人々の記憶の中で最も忘れがたい「焼け焦げた臭油桟」となりました。この後、殻牌倉庫は次第に没落し、予備の倉庫であるだけとなりました。
ここには4棟の大型倉庫、3棟の小型建築物、オイルタンク跡があり、約4千坪近い土地面積を擁しています。淡水の開港、日本人の台湾統治、第2次世界大戦でのアメリカ軍による台湾爆撃など、重要な歴史の時を見届けた、台湾でも数少ない工業遺跡です。2000年6月政府により古跡と公告され、殻牌公司が100年の古跡を地元の文化団体、すなわち淡水文化基金会に寄付しました。殻牌倉庫の歴史、発展と沿革を展示し、また淡水社区大学の開催場所として、不定期に各項目の文化活動の展示公演イベントが開催されています。

滬尾偕医館

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1879年マッケイ博士は、アメリカ国籍の同姓である故マッケイ船長の夫人からの寄付を得て病院を建設しました。マッケイ船長と夫人を記念して、台湾初の西洋式の病院である、この中華と西洋が合わさった建物を「滬尾偕医館」と命名しました。1884年清仏戦争の戦火が淡水まで波及し、医館は救護作業を担当することとなりました。負傷した軍人や民間人を救助したことから、劉銘伝は特にこれを表彰して賞を授けました。1901年にマッケイ博士の逝去によりいったん閉鎖され、1906年にカナダのファーガソン医師(Dr.J.Ferguson)の台湾訪問により、医館は再開されることとなりました。すぐに淡水港の日々を鑑みて、時代に対応した医院の規模へと拡張するために、また台湾の医療の先駆者たるマッケイ博士を記念して、1912年台北馬偕記念医院が落成し運営を開始したことで、ここに偕医館は勇退することとなりました。
偕医館はマッケイ博士が設計し、家屋本体は閩南式の民家です。中国式の閩南瓦の屋根と西洋式のアーチ型のドアと窓があり、極めて面白さに富んでいます。また建物は淡水で有名な左官の手によって建造されました。医館の外観は質素ですが、内部の間取りはシンプルで整っており、当時としては非常に近代化された病院でした。カルテ、医学報告、患者を診療する際には黒い木、白い木の札で初診、再診を区別する制度があり、待合時には衛生と保健などの人々への教育がありました。医館は1912年に営業を終了後、前後に神学校、図書館、幼稚園と学生宿舎として使用されました。建築物本体もまた修理、整理され、1992年に最後の修繕が完了しました。

淡水礼拝堂

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マッケイ博士の貢献により、淡水は台湾北部のキリスト教長老教会の発展の拠点となりました。マッケイ博士は1872年3月9日に淡水に到着後、積極的に布教活動を展開し、また閩南語と地方の文化を真剣に学びました。もともとは賃貸であった家を、病院としただけでなく、布教の場所としました。これが1代目の教堂(教会)です。
淡水礼拝堂は1901年のマッケイ博士の逝去にともない、淡水教会も新たな時代へと入りました。実際上の必要性と拡張の必要性から、教会は1915年に北米様式へと改築されました。レンガ造りの灰白色の壁のため、俗に白色礼拝堂と呼ばれ、鐘楼は正門の上に設置されています。1928年に使用上の不足により改築が決定しました。建設費用は協会のメンバー、学生と地方の教會からの寄付のほか、大部分はマッケイ博士の息子であるジョージ・ウィリアム・マッケイ(George William Mackay)がカナダの本部に補助を申請し、自らデザインして建設を監督しました。1932年に改築が開始され、1933年9月30日に完成しました。現在淡水老街にある美しい礼拝堂はすでに有名な観光スポットとなっています。

埠頭の堤の排水口

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税関埠頭は台湾の近代史で重要な地位を演じ続けています。今日ここで清朝、日本統治時代と戦後の3つの時代の建築物を見ることができます。淡水港が繁栄している時には、10以上の国の船がここに停泊していました。埠頭エリア内の清朝時代の洋館と2棟の日本統治時代の港務倉庫は、すべて淡水が開港して通商を開始した時の証拠となっています。
この場所から橋の頭の対岸を見渡すと、埠頭の防波堤の排水口を見ることができ、満潮時には排水口は川の水に埋もれてしまいます。排水口は防波堤と垂直の場所に設置されています。このため、ここからのみ見ることができます。埠頭エリアの一部の排水口には鉄柵が設けられており、動物や河の中の不純物や汚れで詰まるのを防止するために設置されたと推測されています。

税関埠頭のサンパン

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淡水税関はかつて19世紀後半には台湾全土で最大の貿易商業港でした。河口の泥の堆積と、台湾縦貫鉄道の建設の完成にともない、淡水港は基隆にその地位を取って代わられ、かつて淡水港を航行していた大型の商船や帆船は、今やサンパンへと移り変わりました。
淡水のサンパンの最大の特徴は、船主にある彩色された魚眼のイラストです。一般的に清朝の時代に中国と台湾を往復していた船舶を踏襲しており、船の無事を願い、彩色する伝統がありました。魚眼から、この船が貨物船か漁船かを見分けることが出来るのです。貨物船の魚眼は「前向き」、船がしっかりと方向を判断し、すばやく安全に目的地に到着できることを象徴しています。漁船は「下向き」で、魚群の動きを見ることができ、豊漁祈願を象徴しています。
現代では造船技術の影響と、船舶の耐波性の問題への考慮により、新たに製造される船のデザインには流体力学の原理が採用され、外観上はどんどん流線形となっています。伝統的なサンパンが動き回るさまは、次第に川面から消えていっています。

滬尾洋関の栄華

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滬尾洋関は新関編制(または洋関や税関と呼ばれています)に属し、国際的な貨物の関税を徴収していました。当時は別に常関(または旧関と呼ばれていました)があり、国内で取引される貨物の税金を徴収していました。開港前の台湾の貿易相手は、もともとは中国がメインで、日本、南太平洋が次点でしたが、開港後は国際的な商業港へと躍進し、貿易相手国も全世界へと広がりました。1888年滬尾港の貿易額は頂点に達し、台湾全土の総貿易額の74.9%を占めました。
輸出の興隆は、地元の人口増加を養うだけでなく、中国からの移民の流れを引き寄せ、同時に新北市板橋区の林家のような大家族を誕生させました。淡水港の貿易の繁栄は、北部の税収は茶、樟脳よる輸出で南部を凌ぎ、台湾経済の重心の移転をもたらしました。これは劉銘伝に、政治の中心を北に移すことを促した重要な要素です。貿易による繁栄は台湾の歳入を次第に増加させ、また清朝末期に台湾が鉄道を修繕し、電線を敷設し、電報などの近代化の措置を実施できた主な原因となっています。

忠義池

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税関埠頭には軍部が接収、管理してから、多くの建築が建設されました。園区の入口に位置する小さな池は「忠義池」と名付けられ、海軍の「忠義」の軍のスタイルを象徴しています。現在の忠義池の湖畔には「蛟遊四海」と題された石碑があり、海軍がかつてここに進駐していたことを説明しつつ、軍部が接収し管理した歴史を見届けています。

貴重なバンヤンジュの優雅な半世紀の歩み

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淡水税関埠頭に足を踏み入れると、最初に目につくのは、広々とした優美な観音山と淡水河の景色です。また税関埠頭を楽しむ最良の方法の1つ、それは堤の岸辺の榕樹(ガジュマル)の木陰にすわり、ひっそりとのんびりとした雰囲気を楽しむことです。
淡水税関埠頭のすべての榕樹(ガジュマル)は、多くの人によってはじめて抱きかかえることのできる大木です。樹木の木陰は華蓋(皇帝に掲げられた傘)のようであり、夕陽の秘境の船着き場の上り坂付近の堤防に近づき、木々の枝が堤防に沿って伸び、水面へと低く垂れ、非常に優雅です。
榕樹(ガジュマル)は根が浅い樹木で、平坦な地面の保水に対して絶大な効果があります。また防風・防砂機能を備えており、海辺や川辺の防風林として植えるのに非常に適しています。淡水税関埠頭は河口に近く、湿度の高い土地であり、榕樹(ガジュマル)を植えるのに非常に適しています。日本統治時代の淡水税関の周囲には非常に多くの榕樹(ガジュマル)が植えられており、川辺の観光スポットの大きな特色となっています。

埠頭西側セクションと税関の秘境

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現在の所在地は税関埠頭の堤防の西側のセクションに位置しています。埠頭の西側のセクションは約1901年に建設が開始され、東側とほぼ同じ構造と材料を使用しています。しかし船をつなぐ柱は円柱型のコンクリートで、東側とは大きく異なり、後期に修繕されたと考えられます。淡水税関埠頭は視野が非常によく、遠くに関渡大橋、観音山、淡水河口と台北港を眺めることができます。この場所は樹木に覆い隠されているため、観光客の方々はよくこの場所を見逃してそのまま離れてしまいます。このためここは地元の人だけが知る、海の絶景の最良の観光ポイントで、「税関秘境」とさえ呼ばれています。

軍部が接収した埠頭での歳月

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この写真は、民国40~50年(1951~1961年 )の人力車が使用されていた時代に撮影されたものと考えられます。当時の道路はなおも2車線で、広々とした現在の4車線には広げられていませんでした。撮影者は紅毛城に立ち、家畜試験所の正門の道路上から撮影したものと考えられます。写真の中で、税関埠頭のA棟の洋館とB棟の倉庫をはっきりと見ることができ、軍営でよくみられるバスケットゴールがあります。かつて軍部がB、C棟の倉庫脇に宿舎を建設していましたが、現在はすでに取り払われて芝生エリアとなり、人々にピクニックと休憩の場を提供し、観賞と撮影のために、不定期に大型のアート作品が設置されています。

日本統治時代の倉庫

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埠頭エリアの建設は清朝にはじまり、日本統治時代の1920年末期に埠頭の工程が完了してはじめて、次第に現在の容貌が形成されていき、うち2棟の倉庫が保存されています。もともとは貨物を置いておくのに使用されていました。壁には清水赤レンガを採用し、内部のスペースには木製の仕切りが追加されています。窓枠とドア枠は白い漆喰で描き出され、強烈な色の対比が形成されています。壁であれ、骨組みであれすべて西洋式の構造が採用された、シンプルな造形で実用的な機能をメインとした建築です。
税関埠頭は河口に位置しているため、通常は湿気が比較的多く、暴風雨を防がなければならないだけでなく、満潮時にあたると、海水が進入来る可能性があります。以前倉庫内に保管された商品は、乾燥が保たれていなければならず、はじめてカビたり腐敗を防止することができました。B、C棟の2棟の倉庫の通風孔の開口部は、外は低く中は高くなっており、気流が屋外から吹き込んで来る際、比較的重く湿った空気は壁の内側の通路に沿って上昇しにくくなり、進入しにくくなります。:また波が外側の通気口に打ち寄せた際には、水は倉庫内には容易に流れ込めませんでした。エアコン設備のなかった時代に、こうした巧妙なデザインから、建築士の絶妙のアイディアを見ることができます。

倉庫の屋根のトラスによる特色

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トラスは屋根を支える巨大な三角形構造であり、西洋式の倉庫にはよく用いられる屋根の構造です。建物には相当な数量の貨物を保存する必要があるため、トラス構造を利用して屋根を広げることで、倉庫の面積を拡張できるのです。
淡水には3棟の100年近い倉庫があり、3種類の異なるトラスがあります。それぞれ淡水税関埠頭倉庫(市定古跡)、旧英商嘉士洋行倉庫(市定古跡)、得忌利士洋行(記念性のある建築物)など、3棟の100年近くたった倉庫を観賞できます。
税関埠頭のB、C棟の倉庫(上図)はキング・ポスト・トラス(King Post Truss)を用いており、三角形の構造の中間に真束があります。このようなトラスの構造の種類は台湾でよくみられるもので、とくに1920年代以降の倉庫、礼拝堂と線路のプラットフォームのシェードでよく見ることができます。
旧英商嘉士洋行倉庫(右下)は、クイーン・ポスト・トラス(Queen Post Truss)を用いています。これもまた三角形の構造に2個所のトラスがあるタイプとなっています。旧英商嘉士洋行古跡園区のB、C棟の倉庫で見ることができます。
得忌利士洋行(左下)は、前棟の「第一検査場」がゴシック風を模倣した木造構造のアーチであり、特殊で優美な造形は全台湾唯一のものであり、さらなる特色を備えています。

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