郵政博物館(日本語)

「簡牘(かんしゃく)」&「鈢印(にえいん)、封泥(ふうでい)」&「牌符(はいふ)」&「早期的書信」 日「清代以前の手紙」

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「簡牘(かんしゃく)」 
今日、私たちが字を書くとき、紙に書くのが一般的ですが、「東漢」の「蔡倫(さいりん)」が紙を発明するまでは、竹や木、絹に書くのが一般的でした。竹に書かれたものを「簡(かん)」、木に書かれたものを「牘(しゃく)」と呼び、「簡牘」とは、「竹簡(ちっかん)」、「木牘(もくしゃく)」を合わせた名前です。一枚の「簡牘」には、たくさんの文字は書けませんし、たくさんの「簡牘」をひもで束ねたものを「冊(さく)」と呼ぶのですが、これらは巻いたり、開いたりするのには便利ですが、とても重く、持ち運びは不便です。それで、薄い絹地に書く人もいました。絹地ですので、折りたたみもでき、持ち運びも簡単で、読むのにも保存するのにも便利でしたが、価格が高く、王や貴族、富豪などしか利用できませんでした。


「鈢印(にえいん)、封泥(ふうでい)」
通信手段に「簡牘」を用いた時代、他の人に開封されないように、封をする時に、閉じ口に泥を塗り、その泥に押印しました。これを「封泥」と呼びます。開封すると、この「封泥」は壊れ、開封されたことが分かるようになっています。

秦よりも前の時代は、貧富を問わず、「封泥」に使う印鑑を「鈢(にえ)」と呼び、秦代以降は、皇帝のものを「璽(じ)」、家来が使うものを「印(いん)」と呼ぶようになりました。印鑑上部のつまみ部分には、彫刻が施され、動物や建物などがかたどられています。また小さな穴もあり、そこに絹のひもを通し、役人たちはいつも身に付け、つまみの部分の装飾により、かれらの身分を表しました。


「牌符(はいふ)」
わが国初期の郵便制度は、「官が作り、官が使う」というもので、政令や軍情の伝達だけに用いられ、郵便物はすべて重要な公文書でした。清朝以前の公文書配達や驛馬(えきば)の徴用には証明書を用い、その証明書は「符信(ふしん)」と呼ばれました。手紙は「書」と表しますが、「書」があれば、必ず「符信」もあるので、「書信(しょしん)」という手紙を意味する言葉が広く伝わるようになりました。

この「符信」は、「牌符」とも呼ばれ、時代によって、いろいろな形があります。漢の時代には、2種類あり、一つは様々な要所の門を出入りする時に使う「繻符(しゅふ)」、もう一つは驛馬を徴用するときに使う「木傳信(もくでんしん)」です。唐の時代には「傳符(でんぷ)」や「驛券(えきけん)」が使用され、宋の時代には「檄符(げきふ)」、明の時代は「符験(ふけん)」、「勘合(かんごう)」、「火牌(かはい)」、清代は「勘合」、「火牌」が使用されました。

展示しているのは、清代以前に使われていた「符信」です。魚や亀のものは、官員の身分を証明しています。その他、虎のものもありますが、これは徴兵に用いられ、郵便制度には属しませんが、これも同じく証明用として使われていました。


「早期的書信」 日「清代以前の手紙」

清代以前の文章に「尺素」(せきそ)とあるのは手紙のことで、古楽府(こがふ)という音楽をつかさどる役所の「飲馬長城窟行(いんばちょうじょうくっこう)」という歌曲の一節に「客遠方より来(きた)り 我(わ)れに双鯉魚(そうりぎょ)を遺(おく)る 児(じ)を呼びて鯉魚を烹(に)しむるに、中に尺素の書(しょ)有り」とありますが、ここに出てくる「尺素の書」とは、絹地に書いた手紙のことです。絹は柔らかく、手紙を書いた後、くるくると巻き、閉じ口に相手の宛名を書きます。すると、それをさらに封筒に入れる必要はありません。このように巻いただけで封筒に入れない手紙を「巻牘(かんしゃく)」と呼びます。

以前の手紙すべてに封筒を使わなかったわけではありません。誰かに手紙の内容を見られるのを防ぐために当時は「護封(ごふう)」という封筒を使っていました。ここでは、数十年前によく使われた「護封」を展示しています。

現在、手紙を早く届けたいときは、「限時専送(げんじせんそう)」や「快捷(かいしょう)」という速達で送ります。以前にも同じような方法がありますが、それはとても興味深いものですよ。例えば、急ぎの手紙なら、その封筒の角(かど)のひとつを焼き焦がします。これは「火急」「大至急」を意味し、これらの手紙を「焼角信(しょうかくしん)」と呼びます。また、早めに届けたい手紙であれば、封筒の角に鳥の羽を挿し、急ぎであることを表し、「挿羽信(さしばねしん)」と呼びます。おもしろいでしょう?

封筒に、「酒資照例(しゅししょうれい)」と書いてあるものがありますが、「酒資(しゅし)」とは「酒代(さかだい)」を意味し、手紙にこれが書いてあると、受取人は配達員にお酒などをふるまい、感謝を示し、仕事をねぎらいます。配達料を「酒代」というのは、なんともあたたかみのある言い方ですね。

「清代腰牌」(しんだいようはい)&「大清郵筒」 日「大清ポスト」

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「清代腰牌」(しんだいようはい)
この木札はあまり見栄えのしないものですが、これは清代光緒34年(西暦1908年)に内務府から発行された驛吏(えきり)の「腰牌(ようはい)」です。「腰牌」とは腰につける木札で、驛吏の身分を証明します。ここにある第12号という「腰牌」には、篆(てん)書体の文字が烙印されており、楷書体でこの「腰牌」を使っていた駅吏の氏名、年齢、容貌の特徴が書かれております。駅吏が宿泊するときや様々な要所を通るときなどに使用した、現代の身分証明書のようなものです。残念なことにこの「腰牌」は色褪せて文字が読みにくいのですが、30歳、顔色は黄色で鬚なし、といういくつかの字は読めます。あなたはこの駅吏の姿を想像できますか?


「大清郵筒」 日「大清ポスト」
わが国の最も古いポストは、清代光緒32年(西暦1906年)に使用が始まったものです。頭にお碗のような蓋をかぶり、それには「大清郵政」という4文字と2頭の龍が珠と戯れる様子が優雅に描かれています。ここにありますポストはその複製品です。ポストは円柱形で、上下2つの部分に分けることができ、上部は筒状の鉄から成り、下部は木でできています。ポストの中には、郵便袋が入れてあり、ポストに手紙を入れると、そのままこの袋の中に入るようになっています。郵便物を収集する時は、蓋を開け、この袋を取り出すだけですべての郵便物を漏れなく集められ、時間、労力ともに省けるわけです。 

「火票與排單(かひょうとはいたん)」&「民信局(みんしんきょく)」

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「火票與排單(かひょうとはいたん)」
清代において、馬で配達する公文書は、すべて緊急、且つ重要なものであったため、兵部(へいぶ)では公文書に急ぎであることを表す「火票」を貼り、各驛站(えきたん)に伝達する際は、遅延ならない火急の伝達であることを命令として伝えました。「火票」とは、「火急」「火速(火の速度くらい速く)」という意味からそう呼ばれていました。

また清代の驛站経由で配達される公文書は、必ず「馬封(ばふう)」と呼ばれる封筒を使用し、その封筒に「排單」を貼り付けました。「排單」には必ず官印を押し、発送日時、届ける場所、伝達方法も記載しました。公文書は、各地の站を経由していくので、経由した站名、到着日時を順序通りに詳しく「排單」に記載し、配達員たちはその記載によって、適切に職務を全うしているかどうかで成績がつけられました。


「民信局(みんしんきょく)」
杜甫(とほ)の詩の中に「烽火(ほうか)三月(さんげつ)に連(つらな)り、家書(かしょ)萬金(ばんきん)に抵(あた)る」とありますが、この詩が作られた当時、消息を伝えるのはとても難しく、戦火の中で家族からの手紙が届くことはほとんどありませんでした。古い時代にも駅逓(えきてい)という郵便制度のようなものはありましたが、公文書のみを扱っており、庶民の手紙は誰か人に託すというとても不便なものだったからです。紹興地方では後に、各地をまわって書類の代書などを生業(なりわい)とする紹興師爺(しょうこうしや)という者たちが仕事のついでに民衆の手紙を届けるようになりました。このように、各地で少しずつ民間の通信制度が発達していき、ついに明代の永樂年間(西暦1400年頃)に、「民信局」が設立されるのです。

「民信局」には個人経営や合資経営がありました。陸路では人を使い、水路では民間の船を使い、その後に「輪船信局(りんせんしんきょく)」という船を使った「民信局」ができてからは、一般の手紙の郵送は比較的に早い船を利用するようになりました。当時の「民信局」は郵便物を郵送する以外に、新聞の配達、為替業務なども兼務していました。郵便物の種類には、緊急を表すために封書の角を焼いた「焼角信(しょうかくしん)」、早めに届けたい封書に羽をつけた「挿羽信(さしばねしん)」、また徒歩で配達する書留のようなものもありました。

清代の「民信局」は、光緒20年(西暦1894年)頃に最盛期を迎えました。光緒22年(西暦1896年)に近代郵便事業が起こった後も、しばらくは民信局関係者の生活を考慮し、厳重に取り締まることはしませんでした。その後、民国23年(西暦1934年)にようやくすべての民信局が閉鎖されました。ここには、「民信局」で使用していたスタンプ並びに実際に配達された郵便物の写真を展示しています。

「劉銘伝(りゅうめいでん)創辧(そうべん)台湾新式郵政」 日「劉銘伝台湾近代郵政創立」&「龍馬郵票」(りゅうばゆうひょう) 日「龍馬切手」

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「劉銘伝(りゅうめいでん)創辧(そうべん)台湾新式郵政」 日「劉銘伝台湾近代郵政創立」
光緒14年(西暦1888年)に台湾長官であった劉銘伝の「台湾郵政條款(じょうかん)16條」発布、告示により、台北に「台湾郵政総局」が設けられ、切手を発行し、民間の郵便物も取り扱うようになりました。台湾近代郵政の創立はわが国の郵政現代化の先駆けであり、「大清郵政」、つまり清朝の郵政創立より8年も早いものでした。

劉銘伝の近代郵政の主管機関は「台湾郵政総局」で、台北と台南にそれぞれ台北総站(そうたん)、台南総站を設け、台湾と大陸各地の軍用文書や公文書の相互交換局とし、切手の発行、郵便物の集配業務を行いました。

二つの総站間の幹線上には正站を設置しましたが、相互交換局としての業務を除けば、正站と総站の業務はほぼ同じでしたので、総站も正站と呼ぶことができます。二つの正站の間には腰站(ようたん)が設置され、専ら郵便物の受け継ぎ業務を行いました。幹線から分かれている支線には傍站(ぼうたん)を設置しました。業務内容は正站と同じで、違うのは幹線ではなく、支線に設置されたということだけです。郵便物の集配は幹線上にあります正站と連絡を取り合い、一つの郵便網を形成していました。


「龍馬郵票」(りゅうばゆうひょう) 日「龍馬切手」
清代末期、劉銘伝の近代郵政開業後、切手印刷が粗悪であるので改良しようと、イギリス領事館にロンドンでの切手印刷を依頼しました。この切手は龍と馬の図柄で、これは当時庶民が正月に使った龍、鳳凰、お金、馬の貼り絵の図柄を参考に作られ、「龍馬郵票」と呼ばれています。

残念ながらこの「龍馬郵票」は発行も使用もされませんでした。当時ちょうど鉄道建設中で、台北から錫口(しゃっこう)、錫口から水返脚(すいへんきゃく)、これは今の台北から松山と松山から汐止(しおどめ)のことですが、これらの区間が、光緒14年(西暦1888年)と翌年光緒15年に相次いで開通し、営業を始めました。しかし、乗車券の印刷が間に合わず、この「龍馬郵票」に加刷してしばらく乗車券として使用しました。遠くロンドンで作られ、使われずにいたこの切手もやっと日の目を見ることができました。

「独虎郵政」(どくこゆうせい)

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光緒20年(西暦1894年)、日清戦争が始まりましたが、翌年には終結し、下関条約を結んで、日本に遼東半島、台湾、澎湖(ぼうこ)諸島を割譲しました。日本軍が台湾に武力進駐したときに、義勇軍が抵抗し、台湾全土が戦火にのまれ、民信局も官方郵政も一時業務停止においこまれました。黒旗(くろはた)将軍劉永福(りゅう えいふく)が台南を守った際、商人や庶民、居留民の通信需要を満たすと同時に、軍資金をまかなうため、光緒21年(西暦1895年)6月10日に「台湾民主国郵票」という切手を発行しました。当時「台湾民主国」は青地に黄色い虎を描いたものを国旗にしていましたので、切手には一匹の虎が描かれました。それで「台湾民主国郵票」は「独虎郵票」とも呼ばれています。

黒旗軍は勇敢に抵抗しましたが、日本軍の激しい攻撃により死傷者も多く、光緒21年(西暦1895年)9月2日、劉永福が台湾を離れたため、この独虎郵政もわずか81日間で終わってしまいました。

ここに「台湾民主国郵票」と実逓便(じっていびん)のコピーを展示しています。実逓便とは実際に郵送された郵便物で、実物は当館所蔵ですが、切手の質が粗悪で、手押しで印刷しているため、光によって変色しやすく、展示しておりません。

「早期台湾郵政運郵牛車木輪」 日「台湾初期郵政時代の牛車郵送木製車輪」

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陸上での新しい交通手段であるバイク、車が普及する前は色々な動物に車を引かせていました。大陸北方の馬、南方の牛、砂漠地帯のラクダなどです。台湾では牛に車を引かせることが多く、郵便物の郵送にも牛車を使っていました。ここに展示している牛車の木製車輪は台南郵便局におかれていたもので、木を輪切りにして作られています。

「郵政問訊(もんしん)服務信箱」 日「郵政サービス質問箱」

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人々の郵政業務上の疑問にすぐに答えるため、当時の台湾郵政管理局は特別に民国47年(西暦1958年)9月台北郵便局の営業ホールと小包営業ホールに一つずつ質問箱を設置しました。この箱には公共関係室に直通するボタンがあり、人々の要望、郵政業務上の疑問、また提案があったら、そのボタンを押すだけで親切な係員が迅速で正確な回答をします。このサービスは当時にしてはとても画期的で便利なサービスでした。

「我国各式信箱(しんばこ)、信筒(しんとう)」 日「わが国の郵便受け、郵便ポスト」

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大通りのポストも路地のポストも、風に吹かれ、日にさらされ、雨に濡れることを恐れずに黙々とおなかの中の郵便物を守っており、郵便物の番人とも言えます。それでわが国郵政当局はポストの材質の耐久性を最も重視し、色や形を絶え間なく研究して、改良を重ねてきました。

大陸で使用したポストはほとんど緑色の筒型ポストで、終戦後、台湾に設置されたポストとは違います。ここには、様々な形、様式の郵便受けや郵便ポストを展示していますが、ご年配の方は覚えていらっしゃいますでしょうか。

まず最も普及した普通便と速達便のポストを見てみましょう。民国45年(西暦1956年)に設置されたのは筒型の鉄製ポストで、民国62年(西暦1973年)には箱型のガラス繊維製のものになりました。並んでいるポストの中に黄色い帽子をかぶったようにみえるものがありますが、これは、民国36年(西暦1947年)に全国の各都市に設置された速達専用のポストで、「黄色い帽子のポスト」と呼ぶ人もいました。また、そのとなりにある水色の大きなポストはあまり人に知られていないものですが、これは小包専用のポストです。民国47年(西暦1958年)に普通小包専用として設置されましたが、後にこの業務はなくなり、このポストも使われなくなりました。

「自助郵亭」 日「セルフサービス郵便局」

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この古色豊かなあずまやは「自助郵亭」と呼ばれ、中には切手とおつりが備えてあります。セルフサービスとなっていて、中に職員はいません。手紙を出したいときは自分で切手を買い、おつりを受け取り、手紙はその下にあるポストに入れます。郵便局は毎日職員を派遣し、郵便物を収集するとともに、切手やおつりの補充もしました。このような「郵亭」の設置は職員の省力化をはかることができます。またこれはお互いの信用、信頼によって成り立っており、人々の誠実な道徳観念を養うことを期待したので、この「自助郵亭」を「良心郵便局」とも呼びました。

初めての「自助郵亭」は民国41年(西暦1952年)に台湾大学内に設置され、その後、師範学院、女子師範学校にもそれぞれ一つずつ設置されたので、全部で3つになりました。後に各学校内に郵便支局や切手販売所が開設されると撤去され、民国56年(西暦1967年)5月、すべての「自助郵亭」が閉鎖されました。

「郵政儲金(ちょきん)」 日「郵便貯金」

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民国8年(西暦1919年)に郵便貯金業務が開業されました。しかし当初は通常貯金業務だけで、小額の貯金に便利なように額面が5角と1分という貯金切手が発行され、人々はこれを買い、1元分たまると初めて通帳に記帳できました。

民国19年(西暦1930年)に郵政貯金為替業務総局が設立され、小切手貯金と定期貯金の2種類の業務を始め、また振替貯金業務の準備も行いました。民国20年(西暦1931年)に郵政貯金法令が公布され、「郵政貯金は通常貯金、小切手貯金、定期貯金、振替貯金の4種類とする。また、貯金切手を発行する。」と規定されました。民国52年(西暦1963年)に振替貯金も小切手を使用できるようになったので、小切手貯金の業務を停止、貯金切手も民国55年(西暦1966年)1月に販売を停止しました。現在の郵便局の貯金業務も、通常貯金、定期貯金、振替貯金の3種類です。

「郵政匯兌(かいだ)與(と)匯兌(かいだ)印紙」 日「郵便為替と為替印紙」

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為替業務は国内為替と国際為替、二つの業務に分かれています。国内為替業務は、光緒24年(西暦1898年)1月1日に開業し、国際郵政為替業務は民国7年(西暦1918年)1月1日に開業しました。民国9年(西暦1920年)に国際交換為替公約に加入して、民国19年(西暦1930年)、郵政貯金為替業務総局が設立されると、世界主要国家との為替取引が、イギリス、アメリカ、ドイツ、香港などの郵政を通して、世界各地に行き渡りました。

台湾地区では、日本統治時代にすでに様々な為替業務を行っておりましたが、第二次世界大戦終結後しばらくの間に使用できたのは、わずかに普通為替手形と小額為替手形の2種類のみでした。民国36年(西暦1947年)6月1日、正式に中華民国為替組織に入り、為替業務が再開しました。

郵便局などの郵政機構の設置が中華民国全土に広まりましたので、もし為替手形の発行と引き換えが信用に値するものでなかったなら、すぐ業務管理に弊害を及ぼします。為替業務を始めた当初は為替手形または領収書に同じ額面の切手を貼り、業務の管理をしました。帳簿上の「切手」と「現金」は連動しており、「切手」を売って、「現金」を収めるので、「切手」と「現金」の総額はいつも同額となっていました。民国14年(西暦1925年)に世の中の情勢が不安定なとき、郵便局の「切手」と「現金」はたびたび略奪に遭い、その略奪された切手を違法に使用されるのを防ぐために、別に為替業務上だけに使用が可能な「為替印紙」を発行しました。民国51年(西暦1962年)に「数字切抜き為替用紙」を業務に取り入れ、民国55年(西暦1966年)8月16日には「為替印紙」の発行を停止し、一律に「数字切抜き為替用紙」を使用することになったので、「為替印紙」は歴史上の名前となりました。

「軍郵」 日「軍事郵便」

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軍郵とは、軍事郵便制度のことで、戦争時に特設される郵便通信制度のことです。軍事作戦などにかかわる文書は含まず、それ以外の公文書や私信を扱いました。これは兵士たちを励まし、彼らの士気を高めるのにもとても効果があります。軍事郵便制度は1716年、ドイツで創設されました。その後は各国で戦争があるたびに設置され、その効果は顕著でした。

わが国では民国2年(西暦1913年)、蒙古辺境の匪賊を討つため、軍を派遣した時に初めて軍郵を用いましたが、翌年、戦いが終わるとすぐに停止しました。民国26年(西暦1937年)の日中戦争勃発時には、郵政総局は軍郵を拡大しましたが、民国34年(西暦1945年)8月、戦争が終わると軍郵は停止されました。民国36年(西暦1947年)共産党との戦いで、政府はまた軍郵を設置しましたが、その後戦局が逆転し、区域が逐次縮小して、軍郵局は続々と閉鎖され、約2年後の民国38年(西暦1949年)秋、すべての軍郵が停止しました。

政府が台湾にうつり、反撃の準備をしたので、郵政総局も国策に合わせ、民国45年(西暦1956年)春、軍郵を再開して、金門島に第一軍郵局を、翌年には馬祖の南竿島に第二軍郵局を開局しました。他に部隊駐屯地にて、軍に随行する軍郵局もありました。しかし近年の時局の変遷にともない、民国95年(西暦2006年)12月31日をもちまして、すべての軍郵局を閉鎖し、通常の郵便局に置き換えました。これにより、1世紀弱の軍郵の歴史の幕は下ろされました。

左のケースには、当時の軍郵職員の装備一式があります。右のケースには、被弾したポスト、不発弾、砲弾の破片があり、これらは民国47年(西暦1958年)8月23日に起きた「金門823砲戦」で遺された歴史的遺品です。

「温 勇男(おん ゆうだん)先生事蹟」 日「温 勇男氏の功績」

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郵便局員が郵便物を安全に迅速に目的地に届ける中で、多くの感動する出来事が起こります。

民国62年(西暦1973年)10月9日、台湾東部をナラ台風が襲いました。暴風雨が吹き荒れ、洪水が起こり、橋は流され、孤立地区も出てきました。郵便物郵送のため、その地区の郵便局は様々な緊急措置を取り、軍用機や民間機の定期便を利用し最善を尽くす以外に、比較的短い距離では郵便局員が郵便袋を背負い、山を越え、川を渡り、辛労を厭わず、目的地まで郵送しました。

10月12日早朝、太麻里(たいまり)郵便局の配達員「温 勇男」を含めた一行は南回りで来る郵便車と郵便物の受け渡しをするために、台東を出発し、知本(ちもと)川へ南下しました。知本川に到着すると、すでに知本大橋は洪水により流されており、「温 勇男」は川を自力で渡るという危険な任務を自ら買って出ましたが、水流は激しく、洪水にのまれ、不幸にも殉職してしまいました。

「模型区」

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どの手紙も無事に受取人に届くまで、収集、仕分け、郵送、配達といった過程を踏まなければなりません。これらの過程ではたくさんの郵便職員の協力が必要であり、また各種の業務器具を使い、やっと郵便使命を全うすることができるのです。これから展示模型で、郵便配達の作業過程を見て行きましょう。

普通私たちが手紙を出すとき、手紙に切手を貼りポストに投函します。郵便局員はそれを決まった時間に収集します。しかし、特別な手続きが必要な郵便物または大型の郵便物、書留や現金書留、小包などは郵便局の窓口に行き、手続きしなければなりません。なお郵便局、郵便物取り扱いセンターで手続きされたものも決まった時間に収集されます。現在サービス向上のために、郵便配達員が郵便物をお宅まで取りに伺うこともできます。また辺境の花蓮県玉里郷では移動郵便車が業務を行っています。

郵便局員が収集した郵便物は、まず担当地域内のものとそれ以外のものに分けられ、担当地域の郵便物は整理、消印、区分けの後、各地区担当の配達員が配達し、その他の郵便物は所属の郵便物処理センター、または限時専送、快捷(かいしょう)などの速達を取り扱う部署で処理され、全島各地の郵便局へ運ばれて、整理、消印、区分けの後、配達されます。

郵便物の郵送は、郵便物処理センターが15トンの大型トラックを使って、高速道路を利用し、各郵便局や中継郵便局、その他の郵便物処理センターに運びます。国内の快捷速達便は飛行機、鉄道、新幹線で郵送した後、関連局に配送します。国際航空便は飛行機で、船便は船で郵送します。

各地の郵便局は担当地域区外から地域区内の郵便物を受け取った場合、配達先ごとに区分けして各区の担当配達員に配達させます。

「国内第1部『自動電子分信機』簡介(かんかい)」 日「国内初の『郵便番号自動読取区分機』の紹介」

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ここに展示しているのは、国内初の「郵便番号自動読取区分機」です。これは民国59年(西暦1970年)11月に、日本の株式会社東芝より購入し、台北郵便局で民国73年(西暦1984年)10月まで使用されていたものです。この「分信機」の使用がわが国郵政の郵便物機械処理化の始まりでした。

「分信機」は「区分機」、「理信銷印(りしんしょういん)機」、「分揀(ぶんかん)機」の三つの部分に分かれています。「区分機」は自動的に標準的な封書やはがきを選び出し、「理信銷印機」はそれらを整理し、消印を押します。「分揀機」は光を利用して、書かれている『郵便番号』を読み取って区分けし、決められた棚に入れます。
このように「分信機」は郵便物処理を速やかに行うことができますが、それにはお客様の協力が必要で、標準の封筒、はがきを使用し、郵便番号を正しく書く必要があります。これが正しくなされないと機械は番号を認識できず、仕分けできません。そうなれば人の手で処理するしかなく、機械は本領を発揮できないことになります。

わが国では民国59年(西暦1970年)3月20日に3桁の郵便番号制度を実施し、郵便物の機械処理に対応しました。

「打孔機」 日「穿孔(せんこう)機」

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切手の周りに開いている小さな穴のことを「齒孔(ツーコン)」と言いますが、これは「目打ち」のことで、これがあると、切手を切り離すときにとても便利です。切手が発明された頃はまだ「目打ち」はありませんでした。「ペニー・ブラック」は、「目打ちなし」の切手で、切り離すのに不便でした。郵便局の職員は切手を販売するとき、必要な枚数を毎回はさみで切り取らなければなりませんでした。1848年、アイルランド人のヘンリー・アーチャー(Henry Archer)が切手の周りに穴を開けることを思いつき、1854年にイギリスで「目打ちあり」の切手が発行されたのを始めとして、その後は世界各国に広がっていきました。

ここに展示しているのは、中華彩色印刷有限会社により提供された穿孔機で、これは民国75年(西暦1986年)2月に入荷し、目打ち開け作業を始め、民国82年(西暦1993年)に引退するまでに、116セットもの目打ち開け作業を請け負い、現在この機械には故障した部分がありますが、修理すればまだまだ使えます。

「黒便士郵票」 日「ペニー・ブラック切手」

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ここにあるのは世界最初の切手「ペニー・ブラック」です。

切手が発明される前、イギリスの郵便は「まず配達し、受取人が受け取った時に郵便料金を支払う着払い」であったのと、距離と重さによって計算された郵便料金がとても高く、不合理な点も多くありました。聞くところによると、スコットランド地方に美しい女性がいて、毎日たくさんの求婚の手紙をもらうので、膨大な郵便料金を払えず、彼女は手紙の受け取りをすべて拒否し、手紙は開封されることなく返却されたということです。またある人たちは、事前に双方で約束事を決めておき、差出人は封筒表面に暗号を書いて送りました。受取人は開封しなくても、封筒の暗号を見ただけで相手の伝えたいことがわかるので、手紙を受け取らず、料金を支払いませんでした。このように郵便局は一円も受け取ることなく、ただ働きとなることもありました。

それでローランド・ヒルは多くの重要な郵便改革案を提出しました。例えば、郵便料金の大幅値下げ、郵便料金の前払い、また郵便料金の均一化の実施などです。そして1840年には世界最初の切手「ペニー・ブラック」を発明しました。

この世界で初めて発行された切手は、黒一色で印刷されており、ヴィクトリア女王が18歳で即位した時の気品ある横顔を図柄にしています。額面は1ペニーで、裏のりはついていましたが、目打ちはありませんでした。また同時に額面が2ペンスで、青色で印刷された「ペンス・ブルー」も発行されました。

「ペニー・ブラック」切手は黒の消印を押すと、判別が難しいので、1841年2月10日、額面が1ペニーで赤いインクを使った「ペニー・レッド」が発行されました。これら3種類の切手は、黒、青、赤の色の違いはありますが、図柄は全く同じです。この切手が発行されてからイギリスの国営郵便の経営は日に日によくなり、世界各国は次々とこれをまね、たくさんの切手を発行しました。それで「ペニー・ブラック」は切手の元祖と言うことができます。

「海関一次雲龍郵票(俗稱 大龍郵票)」 日「税関一次雲龍切手(俗称 大龍切手)」

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この切手はわが国最初の切手です。

わが国の近代郵便の始まりは、税関総税司、イギリス人ロバート・ハート(Robert Hart)が税関で試験的に始めたものです。清代、光緒4年(西暦1878年)ハートは天津税務司のドイツ人ガスタヴ・ダーツゥリン(Gustav Detring)に北京、天津、煙台、牛荘(ぎゅうそう)、上海、以上5つの地方の郵便事務の権限を与え、人々の外国語郵便物の集配を行い、同時にこれら5つの地方に「華洋書信館」を設置して、中国語郵便物の集配も行いました。

同じ年に税関造冊処(ぞうさつしょ)で「雲龍」が珠(たま)と戯れる様子を図柄にした3枚1セットの切手を印刷、製造しました。当時の取引は「紋銀」を計算単位にしていましたので、切手の下の方に「CANDARIN(キャンダリン)」と書き、「一両紋銀の百分の一」を表し、3枚1セットの切手の額面はそれぞれ1分銀、3分銀、5分銀と分けられていました。「龍」は「天子」を意味し、大清帝国のシンボルでもあり、中国最初の切手の図柄が「龍」というのは、イギリスの「ペニー・ブラック」が女王の肖像を図柄にしたのと同工異曲の感があります。

これら中国最初の切手は、海関と言われる税関が郵便業務を行った時に発行したもので、「雲龍」を中心とした図柄になっているので、「海関一次雲龍郵票」と呼ばれます。またこれらの切手はその後発行された「海関二次雲龍郵票」より大きいので、「大龍郵票」と呼び、「海関二次雲龍郵票」は「小龍郵票」とも呼ばれます。

「紅印花郵票」 日「紅印花(べにいんか)切手」

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これは、わが国で最も珍しいと言われている切手、「紅印花郵票」です。切手は様々な状況により加刷され暫定的に利用されることがありますが、「紅印花郵票」は加刷して暫定利用された「紅印花加蓋(かがい)暫作(ざんさく)郵票」などの略称です。この「紅印花郵票」の加刷前の切手は、イギリスのウォーターロー(Waterlow&Sons,Ltd.)社製です。「印花」とは「印花税票」の略で「印紙」のことです。以前の国内切手収集家たちは、「紅印花郵票」の加刷前の切手を未発行の「印紙」だと思っていました。しかし、その後の多方面からの考証により、これは税関の通過証明書に貼るために特別に準備された「印紙」の一種だということがはっきりしました。

光緒22年(西暦1896年)、国営郵政が成立した頃、ちょうど清政府は貨幣制度改革を行っており、通貨を銀両制から銀元制へと改めたので、紋銀単位の切手は使えなくなりました。新しい切手もすぐには発行できないので、この移行期間には、「小龍郵票」と「慈禧壽辰(じきじゅしん)紀念郵票」に「暫作洋銀若干」と加刷した他、先ほどの通過証明書用に準備されたという「紅印花郵票」の加刷前切手、額面3セントにも「大清郵政 當幾圓或暫作洋銀幾分(とういくえん、あるいはざんさくようぎんいくぶ)」と加刷し、これらを「暫定切手」として利用しました。「印紙」の身分を捨て、「切手」となった「紅印花郵票」は印刷が精巧で美しいことから、収集家たちにとても喜ばれ、愛好されて、わが国切手コレクションの世にもまれな貴重な宝となりました。

「紅印花郵票」は、加刷した文字の大きさと額面の違いなどによって8種類に分けられます。ここに「紅印花四宝」の展示がありますが、「紅印花四宝」とは「紅印花郵票」の加刷前の切手、「當壹圓(とういちえん)郵票」、上下逆に加刷した「當伍圓倒蓋票(とうごえんとうがいひょう)」、同じく逆さに加刷し、さらに重複印刷した「小貳分倒蓋兼複蓋票(しょうにぶとうがいけんふくがいひょう)」の4種類の切手のことです。加刷前の切手と、「小壹圓」とも呼ばれる「當壹圓(とういちえん)郵票」は現存するものが少なく、とても希少価値があります。他にも田型に4枚並んだ「紅印花小壹圓郵票」も展示していますが、これはさらに、全世界における宝の中の宝、王の中の王と言われる誉れ高き一品です。わが国の切手収集家、周今覚(しゅう きんかく)は「東半球上の華郵(かゆう)、中華圏切手コレクションの中の、最も希少価値のある逸品」と評しております。それで切手収集家たちはこの田型の「紅印花小壹圓郵票」を「華郵の王」と呼んでいます。

「民初四珍」

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切手は印刷、製造過程において、時に重大な失敗が発生することがあります。例えば、上下逆印刷、重複印刷、目打ち漏れなどです。ここで紹介しているのは、民国初年前後(西暦1912年前後)発行の何かしら問題のある4種類のエラー切手で、非常に珍しいので「民初四珍」と呼ばれています。

みなさん、これらのエラー切手を細かいところまでよく見て下さい。間違いにお気づきになりますか?

「北京一版(いっぱん)辟雍(へきよう)郵票」と呼ばれる切手は、北京にある辟雍闤(かん)橋の門を正面から見たところを図柄にしています。「辟雍」とは皇帝が特別講義をした場所のことであり、「學宮」とも呼ばれるので、この「辟雍郵票」は、「宮門(きゅうもん)郵票」とも呼ばれています。この額面2圓の切手は、図柄が逆さに印刷されているので、「宮門倒郵票」、「宮門逆さ切手」と呼ばれています。

もう一枚の「宮門郵票」は、額面壹圓の上に「限省新貼用(げんしょうしんてんよう)」と加刷されていますが、これは「限新省貼用(げんしんしょうてんよう)」の間違いです。

他にも「北京一版帆船郵票」額面三分(さんぶ)の上に「暫作二分」と加刷があるもの、また「北京二版帆船郵票」灰色額面四分(よんぶ)の上に「暫作三分」と加刷したものは、どちらも加刷が上下逆印刷となっていて、これらはとても珍しい「逆加刷切手」となりました。

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