山林を望む屋外美術エリア
山林を望む屋外美術エリア
『山林を望む屋外美術エリア』では、台湾美術界の巨匠、陳澄波(1895-1947)が描いた嘉義県のイメージをデジタル化した画作18点を展示し、「嘉義」と「山林」の二大テーマからなる特色をご覧いただきます。展示は「カルチュアルアクセシビリティ」を理念とし、この場所を訪れた皆さまに、陳澄波の芸術作品に親しんでいただき、画家が描いた絵画の世界とその身を置いた時代に歩みを進めつつ、当時の木材産業の状況や嘉義の近代化、都市の発展をともに確かめながら、庶民の暮らしや宗教活動など、多様な文化を体験していただきます。
自画像(2)
油彩キャンバス
この自画像の陳澄波は、自信に満ちた表情を浮かべており、背後には夏の陽射しを浴びたハイビスカスが鮮やかに咲いています。35 歳になった陳澄波は、油彩画の世界のなかに、一種の理想的な自分を表現する手段を見い出していました。
日本から上海へ渡った陳澄波は、芸術家として新たな段階へと歩みを進めました。上海では中国の伝統絵画の概念や技法を吸収し、それまでとは異なる風景画のモチーフを見つけました。この自画像は、自分の将来への自信と期待を表しているのかもしれません。
自画像
自画像は西洋美術における重要な伝統の一つです。画家はこうした作品を通して、画家自身の個性や人生観を表現してきました。東京美術学校ではヨーロッパに留学した洋画家たちにより、自画像制作の気運が高まりました。同校を卒業した台湾出身の画家たちの多くも自画像を残しています。
まなざし
1928年の自画像と比べると、この作品の陳澄波の表情はより穏やかで、まなざしも澄んで明るくなっています。これは上海滞在期間中に、新たな芸術的着想や方向性を見い出したからかもしれません。作品の陳澄波は、右のほうを斜めに見ていますが、その落ち着いたまなざしで、何を見つめているのでしょう。
1928 年の自画像の陳澄波は、陰鬱な表情を浮かべており、色調も全体に暗く沈んでいる。
自画像(一)、1928、油彩キャンバス、41×31.5cm。
コートと毛糸の帽子
白い毛皮の衿が付いたコートに濃い色のニット帽という装いから、上海に滞在中の冬に描かれた絵だということがわかります。1931年に撮影された家族写真でも厚手のコートを着ており、ほとんど皆が暖かそうな毛糸の帽子をかぶっています。この自画像に描かれているのも、このような帽子だったのかもしれません。
ハイビスカス
厚手の冬物を着ているにもかかわらず、陳澄波は意図的に南国情緒漂うハイビスカスの花を背景に描いています。はつらつとした自画像に合わせたのか、あるいは、自身の出身や来歴を伝えようとしたのかもしれません。現存する2点の自画像は、いずれも背景にも熱帯を思わせるモチーフが描き込まれており、味わい深いものがあります。
絵葉書のコレクション
ゴッホやセザンヌといった後期印象派を代表する巨匠たちは、陳澄波の画風に大きな影響を与えました。自画像も、この二人の画風を参考にしたのかもしれません。陳澄波の絵葉書コレクションには、セザンヌの自画像が 1 枚あり、その表情をよく見ると、どこか陳澄波の自画像に似たところがあるようにも感じられます。
白いターバンを巻いた自画像
分厚い唇
自分のふっくらと赤みを帯びた唇に気づいた陳澄波は、この自画像で、その特徴を鮮やかな色で描き出しています。友人であり画家でもある廖継春が描いた自画像でも、やはり自分の赤く厚みのある唇を意図的に強調しています。この二人の画家は鏡を前に、自分の唇をじっくりと観察していたのかもしれません。
廖継春『自画像』1926、木板油彩、32x24cm
初秋
油彩キャンバス
街角の風景に幾何学的な線が交錯しています。廟の屋根に反り返る燕尾脊、日本式の木造家屋の山型の屋根、西洋風の小さな家。多種多様な建物が、リズミカルで美しく作品を構成しています。力強く伸びる広葉樹の枝、緑陰に包まれた風景、初秋を迎えた南国の、衰えることなく旺盛な自然の生命力が表現されています。木の竿に干された洗濯物、手すりの向こうに広がる小さな世界に目をやると、のんびりと安らいだ気持ちになってくるようです。
作画の場所
陳澄波の子孫の記憶によれば、この作品は蘭井街の旧居にあったベランダから南の方を望んで描かれた作品です。左側に見える宝塔のある屋根は、温陵媽祖廟の裏側にあたり、右側に広がる枝葉は裏路地の龍眼の木だと思われます。時の流れとともに陳澄波の旧居の姿も大きく変わり、この絵に描かれた欄干のあるベランダは、いまはもう存在していません。
2 枚のデッサン
陳澄波が残したスケッチブックには、この油彩画に関連する速写が2枚あります。そのうちの1枚は、妻の張捷が子どもを抱いてベランダの手すりから外を眺めている姿で、もう1枚は『初秋』の構想段階のものです。このデッサンと完成した油彩画を丹念に比較してみると、完成に至るまで、細かな空間配置に何度も変更を加えていたことがわかります。
人物スケッチ(172)-SB30(40.10-41.7) 1940-1941 頃 紙、鉛筆 36.5×26.3cm
風景スケッチ(202)-SB30(40.10-41.7) 1940-1941 頃 紙、鉛筆 36.5×26.3cm
画作の題名
日本統治時代、政府主催の美術展では「初秋」という題名の作品がよく見られました。例えば、李沢藩、廖継春、楊佐三郎といった画家たちも、初秋の風景を描いた作品で入選を果たしています。これらの作品を見比べることで、それぞれの画家たちがどのように「初秋」という季節を捉え表現したのか、共通点や相違点は何かを探ってみるのも興味深いでしょう。
楊佐三郎『初秋の湖畔』1940、第3回府展。
名島貢『初秋風景』1940、第3回府展。
龍形の剪黏
「剪黏」は、中国南方特有の民間工芸で、台湾には、寺廟の屋根や「牆堵」(寺廟の壁面)の装飾技法として伝わりました。職人たちはカットした磁器片を漆喰に貼り付けて、さまざまな意匠を作り出します。この作品で陳澄波は意図的に龍の形をした剪黏を背景の木陰に溶け込ませています。どこに剪黏があるか、わかるでしょうか。
双龍拝塔と双龍搶珠
台湾の廟に見られる剪黏には、さまざまなテーマがあり、その形も様々です。この作品に見られる「双龍拝塔」と「双龍護珠」は、屋根の棟の端によく見られる厄除けの意匠です。「七宝塔」と「摩尼珠」は仏教由来の概念で、青龍は寺廟を守護することに加え、雨を降らせることもでき、寺廟を火災から守ることができるとされています。
和風建築
日本統治時代、「内地」から多くの人びとが台湾に移住したことで、和風建築が台湾各地に建てられました。この作品に描かれている建物の側面を見ると、屋根の棟には鬼瓦、破風の上には通風用の窓があり、外壁は下見板張りといった特徴が見られます。この家のような古い和風建築は、現在でも嘉義市内にその姿をとどめています。
樹木と構図
端に描かれた大木の枝葉は傘のように広がり空を覆っています。こうした構図は陳澄波の風景画によく登場します。絵の上のほうに向かって伸びる木の影が「初秋」という自然や、この土地の植物の生態を表現するとともに、手前に描くことで、絵に奥行きをもたらしています。
『農家』油彩キャンバス、91×117cm、1934。
「長栄女中学生宿舍」油彩キャンバス、91×116.5cm、1941。
陳澄波のこの 2 点の作品では、右側から上に向かって枝を伸ばす大木が描かれており、自然風土の特色を表現しているだけでなく、絵画全体の遠近感と距離感を生み出しています。もし、この2つの作品に大木が描かれていなかったら、どのように変わるでしょうか。
嘉義の町はづれ(3)
油彩キャンバス
道路へと続く浅い水路、その先には道沿いの廟の燕尾脊(屋根)の反りが弧を描いているのが空に映えています。陳澄波の眼前に広がるのは、かつて作品を通して日本に紹介した自身の故郷、嘉義の情景です。この作品より前に描かれた帝展入選作と比べると、本作では近代化がさらに進み、秩序だった町並みがより明確に描かれています。遠くには嘉義市街地が望まれます。再びこの風景を描いた陳澄波は、町の変化を記録として描き残そうとしたのかもしれません。
4 枚の『嘉義の町はづれ』
この作品の構図は1926年の初めて帝展に入選した作品とほぼ同じですが、視点だけがやや後ろに移動しています。現在、同じ視点、同じ道の風景を少なくとも4枚描いていることがわかっています。このように何度も繰り返し描いたのは、画家にとってこの道の風景が、何か特別な意味を持っていたということがうかがえます。
左:嘉義の町はづれ(1)、1926、油彩キャンバス、40 号
中:嘉義の町はづれ(2)、1927、油彩キャンバス、65×53.4cm
右:嘉義の町はづれ(3)、1928、油彩キャンバス、15.7×22.7cm
市街地と原野の境目
真っ直ぐに伸びる道や水路、そして電柱から、この道が近代化された都市空間であることがわかります。しかし、1920年代末、この場所は、これから拡張されていく町の周辺の町外れに位置していました。陳澄波が描こうとしたのは、自然と文明が交差する、その境界線上にある風景だったのかもしれません。
道路の風景画
道路を主軸とした一点透視の構図は、明治時代の日本画壇で広く流行したもので、陳澄波が絵画を学んだ師・石川欽一郎もこの手法を得意としていました。道路を作品の軸に置くことで、鑑賞者の視線を自然に作品の奥へと導きながら、その沿道に、その土地ならではの特色ある風景をたくみに描いています。
陳澄波旧居
媽祖廟の裏手からそれほど遠くない「西門町 2 丁目 125 番地」に陳澄波の旧居がありました。しかし、この作品を描いた当時の自宅は、そのすぐ近くの「西門外街 739 番地」にありました。陳澄波が残したハガキを見ると、1933 年以降は、転居にともない宛先が変わっているのがわかります。
1933 年 6 月、陳澄波宛のハガキに記された嘉義の住所は、1931 年 1 月に届いた年賀状の宛先とは異なっている。
左:LE2_021、1931.1.1 林益杰が陳澄波に宛てた葉書。
右:LE2_030、1933.6.9 明石啓三が陳澄波に宛てた葉書。
温陵媽祖廟
この作品の中で最も台湾らしさを感じる景物の一つは、廟の屋根の上に反り返る燕尾の装飾です。陳澄波にとって、自宅近くの温陵媽祖廟は、自身の成長の記憶にとって大切な場所だったのでしょう。この廟は1906年の大地震で一度は倒壊しましたが、1923年に修築工事を終え、新しくなった姿が陳澄波の作品に描かれることになりました。
1927 年制作の陳澄波の作品「温陵媽祖廟」には、修築後の温陵媽祖廟が主役として描かれており、外観の装飾が細部まで丁寧に描写されている。
「温陵媽祖廟」1927、油彩キャンバス、91×116.5cm
用水路
作品の遠景に見える道路は、現在の国華街にあたり、手前に描かれている水路は、現在は埋設されています。古い地図と照らし合わせると、このまっすぐな水路は「道将圳」の支流と推測されます。1920年代に老朽化した道将圳は近代的に整備され、この作品にあるように直線的な用水路に改修されましたが、以前と同様に近隣の農地に灌漑用水を供給し続けていました。
1931 年の『嘉義市街実測図』を見ると、「西門町二丁目 125 番地」にあった陳澄波旧居の位置がおおよそ把握できる。そこから南に向かうと、廟の地図記号が示されている温陵媽祖廟があり、整備はされているが、まだ埋設されていない用水路がある。
嘉義市街実測図(1931)、中研院 GIS センター「台湾百年歴史地図」。
台湾銀行職員宿舎
用水路右側の塀の内側にある建物は、1910 年以降に建てられた台湾銀行の職員宿舎と考えられます。日本統治時代、台湾銀行は台湾各地に行員のために和風の宿舎を建設しました。現在、多くの台湾銀行宿舎が文化財に指定され保存されていますが、嘉義の宿舎群は保存対象とはならず、十数年前に嘉義市によって取り壊され更地になりました。
玉山の積雪
木板・油彩
赤褐色の大地、鬱蒼とした緑色濃い山々、白銀の雪に覆われた峰々、そして静寂を湛えた濃紺の空。深く荘厳な気韻が、幾重にも重ねられた重厚な油彩に沈殿し、画家の自然畏敬と礼賛と崇敬となって語りかけてくるようです。
簡潔で力強い筆致には、豊かな色彩が込められています。この作品で陳澄波が語ろうとしたのは、長い物語ではなく、言葉を凝縮した詩です。そこに詠われた玉山は、清らかな光をまといながら聳え立ち、この島の気高い精神の化身となって、全てを見守っているかのようです。
遺作
1947年3月25日、陳澄波は政府の命により処刑されました。『玊山の積雪』 はそれより少し前に完成した作品で、同じ日に処刑された兄弟同然の友、柯麟に贈られたものです。これが夫の遺作であることに気づいた妻の張捷は、柯麟氏の遺族に願い出て別の作品と交換し、自宅に持ち帰り大切に保管しました。
陳澄波と玉山
陳澄波の芸術人生において、玉山は重要な題材でした。この小さな木板油彩画は、陳澄波が描いた玉山の代表作です。登山を好んだ陳澄波は、嘉義の市街地や郊外の、さまざまな角度から、なんども玉山を眺め、油彩という世界で台湾の山や森への熱い愛情を表現したのです。
玉山の積雪
300年以上前、『諸羅県志』を編纂した清代の文人・陳夢林は、嘉義から望んだ冬の玉山の感動を「望玉山記」に記しています。陳夢林は山頂の雪景色を「空に舞い散る瀑布のようであり、また絹の反物を広げたようでもある」と表現しています。皆さんは玉山に積もった雪に何を思うでしょうか。
眺める山から楽しめる山へ
日本による台湾統治が始まると、標高3952mの玉山は、日本最高峰の「新高山」と名付けられ、台湾を代表する風景となりました。20世紀初頭には、山林資源の開発や、登山が盛んになるにしたがって、玉山も文学作品や美術作品にたびたび登場するようになり、多くの人に知られるようになりました。
かつての大武巒山
中景に描かれている緑の低い山並みは、嘉義から玉山を望んだときに最初に目に入る山並みです。現在は、中ほどの山は「鳩州嶺」、右側の山は「烏心石山」と呼ばれています。清代の文献では、これらの山々を総称して「大武巒山」と呼び、諸羅県城(現在の嘉義)の「主山」とされていました。それらを背後から守る「後楯」が、高々と聳え立つ玉山でした。
作画場所
手前に描かれている大武巒山のふたつの峰は、後ろにそびえる玉山の主峰と南峰とが垂直に重なっています。現在、嘉義市呉鳳北路の東側の中山路から東を遠く眺めるとこのように見えます。おそらく陳澄波は画材を携えて、住居の北東にあたる嘉義市役所の近くまで足を運び、この絵を完成させたのでしょう。
玉山の遠望(1)
油彩キャンバス
チューブからたっぷりと絞った厚みのある絵具で草地の景物が、そして、こすりつけるようなタッチで生い茂る樹木が描かれています。前景では筆致が随所で躍動し、作品全体が生き生きとしています。ですが、視線を遠くに向けると、対照的に平塗りで描かれた遠景に玉山が雄大に聳え、空には獲物を狩るオオタカが舞っています。山頂を覆う真っ白な雪は、幽遠な雰囲気をかもし出しています。
嘉義郊外から玉山(新高山)の頂きを遠くに望みながら、陳澄波は近景と遠景という2つの風景の印象を念入りに検討し、眼前に広がる雄大な景色を一枚の精緻な小品にまとめました。
傘をさす人物
シンプルな筆致と線で描かれたものが何を表しているのか、パッと見ただけではよくわからないかもしれませんが、陳澄波の作品をよく知っているならば、陳澄波の風景画によく登場する人物、日傘をさしている女性であることに気づくでしょう。日傘で陽射しを遮る様子は、近代の文明的な暮らしの一コマであるのと同時に、作品に南国的な雰囲気を添えています。
電柱と阿里山
若草色の原っぱに木の電柱が何本も並んで設置されています。そのうちの 一本は作品中央で大きく斜めに傾いており、ひときわ目を引きます。日本統治時代、台湾総督府は日本から柳杉を持ち込み、この作品の背景に描かれている阿里山一帯に植林を行いました。真っ直ぐ高く伸びる柳杉は、その後、台湾で多くの電柱の材料として使われるようになりました。
郊野
1926 年に帝展入選を果たした『嘉義の町はづれ』という作品は、街と郊外との境の風景を主題としています。この作品の創作概念も、おそらくそれに近いものでしょう。作品では、電柱とコンクリートの塀が広大な自然の風景の中に建っており、現代文明の力が都市の周囲にまで次第に拡大してきていることを示しています。
玉山
現存する陳澄波の作品の中で、本作は白雪を頂いた玉山の姿を描いた最も早い時期の作品だと考えられます。市街地から遠く望む玉山山脈の美しい積雪は、嘉義の人びとに共通する原風景です。陳澄波は故郷の風景を描いたこの作品のなかで、こうした印象的な眺めを際立たせています。
欧陽文
この初期に描かれた油彩作品は、陳澄波の教え子だった芸術家・欧陽文に贈った油彩画だそうです。1950 年、欧陽文氏は白色テロで無実の罪で投獄され、この絵も軍に押収されたのち、街角に遺棄されてしまいました。幸いにも欧陽文の妻、林翠霞氏がこれを拾い持ち帰り、大切に保管したことで、今日に伝わっています。
油絵の厚塗り
陳澄波は絵の具をたっぷりと塗り重ねて、樹木や人物、電柱を描いたため、近景のモチーフのすべてが立体的になっています。この「厚塗り法」は、陳澄波が深く敬愛したゴッホを想起させます。リズミカルな筆づかいや、うねるような線の動きが鮮やかに表れる、両者の多くの作品に共通して見られる技法です。
空を飛ぶ鳥
青緑色の空を、シンプルなタッチで描かれた一羽の鳥が飛んでいます。鳥の輪郭は黒く描かれ、遠くにそびえる玉山を覆う真っ白な雪と鮮やかな対比をなしています。陳澄波は、こうした広がりのある風景画に、遠くへと飛び去る鳥の姿を加えることで、広大で静寂のある空間を暗示しています。
玉山の暖冬
油彩キャンバス
山脈を覆う真っ白な雪が冬の訪れを告げていますが、絵に描かれている嘉義には、暖かな陽射しが降り注いでいます。陽の光は塀に長い影を落とし、画面全体に心安らぐのどかな雰囲感が漂っています。ほんのりと温もりのある空気の中で、人々の顔も陽に照らされて赤く染まったかのようです。
陳澄波がキャンバスに描いた故郷嘉義の風景には、多くの作品で暖かさが感じられます。皆さんの心に浮かぶ故郷の風景は、どんな色でどのようなイメージでしょうか。
電柱と陳澄波
1913 年、「嘉義電灯会社」が設立されました。発電設備の導入にともない、電柱も街なかでよく見かけるようになりました。同じ年、陳澄波は進学のために北部へ向かいました。その後、嘉義に帰郷した際、すっかり様変わりした故郷の姿に、きっと驚いたことでしょう。その印象が強烈だったことから、作品に電柱を好んで描くようになったのかもしれません。
玉山と嘉義
1935 年、陳澄波は「嘉義市と芸術」と題した文章で、新高山(玉山)が嘉義の人々にもたらす喜びと励ましについて、熱意を込めてこう記しています。「新高の主山は毎朝定まった様にお日様と共に笑顔を見せてくれる。実に麗しい秀峰であって、毎日眺められる我々市民は何程仕合せであるか知れぬ」
積雪の色
玉山では毎年11月から12月頃にかけて雪が降り始めます。雪は3ヶ月から4 ヶ月にわたって降り続き、降り積もる雪の量によって山頂の姿も変化していきます。陳澄波が描いた風景画に見られる玉山の色も、季節や気候によって違いが見られるかもしれません。
影と作画の時間帯
絵に描かれた情景を手がかりに、作品が描かれた時間や空間についての手がかりを得ることができます。この作品では、塀や人物、樹木の影が、いずれも左下に伸びていることから、太陽は作品の右奥、つまり、嘉義東部の山間部にあると推測されます。こうしたことから、陳澄波がこの作品を描いたのは午前中だと考えられます。
サイン
陳澄波のサインは、作画の時期によってかなりの違いが見られます。この作品は漢字でサインしていますが、初期の作品では、日本語や台湾語の発音をローマ字で記しているものもあり、名前を日本語読みしたアルファベットの頭文字「CTH」 3 文字を重ねたオリジナルの図案をサインとして用いた作品もあります。
画幅
1935年初頭、陳澄波は新聞紙上にある批判的な文章を発表しました。それは、当時の台湾人画家たちは、日本の画壇を模倣し、美術展で評価を得るために大型作品を制作しているが、その成果は往々にして完成度に欠けているという指摘でした。陳澄波は、このような号数が小さい作品でも、画家の技巧と個性が十分に表現できていれば、完成度が高い作品であると考えていたのです。
嘉義の郊外
油彩キャンバス
のどかな田園風景の中に、細かく描き込まれた多くの物語が息づいています。中庭に描かれた女性の後姿が、作品の焦点となっています。女性の周りに描かれている鶏や子ども、物干し竿は、女性のひたむきな労働と献身的な働きぶりを静かに物語っています。古風な農家の後方には近代的な牧場が広がり、三角屋根が遠くの山並みと連なり、起伏に富んだ連続的な躍動感を生み出しています。陳澄波の作品に繰り返し登場する、聳え立つ玉山は何を象徴しているのでしょうか。
作画の場所
陳澄波の子孫の記憶によれば、この作品は「嘉義郊外の酪農牧場」で描かれたもので、古い地図に記載のある、市街地南西部に位置する嘉義牧場のことだと考えられています。作品に描かれた山並みも、その場所であることを裏付ける手がかりとなります。そこから東の方角を望むと、手前に見える大武巒山は左にずれて見え、後ろにそびえる玉山山脈と一直線上に重なることはありません。
太子楼
大型の建物の三角屋根の中央に、一段高く突き出た小さな屋根があります。これは「太子楼」と呼ばれる換気口で、日本では「越屋根」と言われています。このような建築様式は、通気性と乾燥が必要なタバコ乾燥室(菸楼)や穀物倉庫などによく見られます。この作品が酪農牧場で描かれていることから、この建物はおそらく牛舎ではないかと考えられます。
日本統治時代にあった「太子楼」の牛舎。台湾畜産株式会社『台湾畜産株式会社十周年誌』(台北市:台湾畜産株式会社、1930)前置3頁。
牧場の柵
道路の両側に、縄と木の杭で作られた簡素な柵が描かれています。これは、牧場から家畜が逃げ出さないように設置された柵だと考えられます。日本統治時代になると、台湾でも牛乳を飲む習慣が徐々に広まっていきました。日本の業者によって乳牛の飼育法や搾乳技術が導入され、それに伴って牛乳を専門に生産する牧場が、各都市の郊外に建てられていったのです。
日本統治時代の台湾畜産株式会社の牧場柵。台湾畜産株式会社『台湾畜産株式会社十周年誌』(台北市:台湾畜産株式会社、1930)前置 4頁。
竹管仔厝
「竹管仔厝」は、かつて台湾の田舎でよく見られた伝統的な住居です。屋根は茅で葺かれ、破風(妻側の三角形の壁)には、格子状に組まれた竹が見えます。太くて丈夫な竹で骨組みや梁を組み、壁は細い竹を編み込んで、その上から漆喰を塗って仕上げます。こうした簡素な作りの家には、多くの台湾のお年寄りに共通する懐かしい記憶が宿っています。
石臼
口が広く、下に向かってすぼまっていく、いかにも重そうなこの大きな道具は、おそらく石で作られた「舂臼(つきうす)」か「磨盤(はいばん)」だと考えられます。舂臼は米を搗いて糠を取り除き白米とするために、磨盤は米を原料とする飲み物の「米漿」や、米粉を作るのに使われました。古くから米を主食としてきた台湾では、こうした米を加工するさまざまな道具が作られ、農村を象徴する風景となっていったのです。
女性
「大襟衫」(当時の庶民の衣服)を着て、髪を高く結った女性が、石臼のそばにしゃがんで黙々と働いています。当時の台湾社会では、女性は家庭の重要な支え手で、家事全般はもちろんのこと、さまざまな労働も担っていました。この作品に描かれているような養鶏、洗濯、米搗き、そして子どもの世話など……こうした仕事のほとんど全てを、女性が一手に担っていたのです。
養鶏
昔の台湾の伝統的な農村社会では、田畑を耕すだけではなく、副業として家畜を飼うことがよく見られました。なかでも養鶏は、昔の平埔族(台湾の平地先住民族)の暮らしの中でもよく見られました。18世紀初頭に編纂された歴史書『諸羅県志』には、杵と臼で作業する人の傍らで、こぼれた米粒をついばむ鶏の姿が、興味深い絵として描かれています。
「番俗図」『諸羅県志』
嘉義の町
油彩キャンバス
新しいスタイルの建物が立ち並ぶ市街地は、近くの木造家屋や伝統的な商店と興味深い対比をなしています。建物の周りには太陽の光がゆっくりと降り注ぎ、地面一面が暖かな黄色に染めあげられています。その温かい日差しを浴びて、絵の中に描かれたあらゆるものが、温もりある愛らしい色あいを見せています。手前に描かれている大木は枝を大きく広げ、まるで道行く人たちを守るかのように木陰を作っています。目を閉じて陳澄波の絵の世界に足を踏み入れてみてください。きっと、この土地の温かさに触れることができるでしょう。
新高写真館
1927 年、嘉義で事業を起こした写真家の方慶綿氏は、この街角の写真館を買い取り、もともとの名前「新高写真館」をそのまま引き継ぎました。方氏は山岳写真家として知られ、玉山や阿里山、八通関山などを踏破しました。その作品には、当時の台湾山岳地帯における自然や文化が写真に収められており、貴重な歴史的記録として残されています。
盧添登編纂,『穿越時空玉見您』(水里郷:玉山国家公園,2010),86頁。
「左側通行」の立て札
「左側通行」は日本が台湾に導入した近代的な交通ルールです。総督府は、道に立て札を設置したり、巡査が交通整理をしたり、学校教育で指導したりと、さまざまな方法でこの政策を浸透させようと努めましたが、その効果は限界的でした。戦後、台湾は中華民国政府の法令に従い、右側通行へと再び変更されました。
永利商店
2階建ての建物の、緑色のアーチの上には、立体的な文字で「永利商店」と書かれた看板が掲げられています。ここは各種金属素材や機械工具を専門に扱う店でした。嘉義を訪れる機会があれば、ぜひ興中街と中正路の交差点で、この絵のこの場所を探してみてください。この建物は、陳澄波の絵に描かれたものの中で、唯一現存する場所です。
嘉義市役所『嘉義市制五周年記念誌』(嘉義:嘉義市役所、1935)前置面22、「本島人街」。
豊茂金物商
ひと際大きな看板に「豊茂金物商」という文字が書かれています。この店は、嘉義の名士である羅茂松氏とその一族が経営する企業で、1930 年代に事業を拡大し、高雄にも支店を出しました。鋼鉄建材や各種金属の売買を手がけるほか、北社尾に工場を建設して、石綿製の煙突や鶏舎の金網なども製造していました。
蘇睦喬編『嘉義写真・第二集』(嘉義市:嘉義文化局、2002)25頁。
嘉義市の新しいランドマーク
1934 年に完成した3階建ての鉄筋コンクリート造りの建物は、豊茂商行の事務所で、当時の嘉義では前例のない近代建築でした。陳澄波が描く街の風景画では、現代文明が都市景観にもたらす影響がしばしば注目され、描かれています。この斬新な建物が、陳澄波にこの絵を描こうという創作意欲をかき立てさせた主な理由だったのかもしれません。
デッサン
今、わかっているだけでも、陳澄波はこの風景を描くにあたり、少なくとも3枚の鉛筆スケッチを描いています。これらを比較してみると、視点を動かしたり画面を縦長にしてみたり、作品右側の大木を省略してみたりと、さまざまな試みを重ねていたことがわかります。しかし、常に変わらなかったのは、背景に広がる山並みの配置と、手前に描かれた人物の親しげな様子です。
風景スケッチ(107)-SB13:34.8.3 1934 紙、鉛筆 18×12cm
風景スケッチ(108)-SB13(33.5-34.9) 1933-1934 頃 紙、鉛筆 18×12cm
風景スケッチ-34.8.3 (2) 1934 紙、鉛筆 19.1×25.5cm
亭仔脚(tîng-á-kha)
「騎楼」は、中国南部や東南アジアでよく見られる建築様式です。高温多雨の地域では、店先に設けられたこの通路が、雨や強い日差しから人びとを守ってくれます。日本統治時代に嘉義市内で進められた近代化建設の際、「亭仔脚」と呼ばれる騎楼の設置が政府の法令に組み込まれ、にぎやかな市街地の象徴的な景観となっていきました。
修復における倫理
陳澄波の他の多くの作品と同様に、この『嘉義の町』も修復されています。絵の左下の地面の絵具が大きく剥がれ落ちていたため、修復を担当した木島隆康教授は、美術品修復の原則に基づき、元の絵具に近い色で、しかも後から取り除ける油絵具を使って修復を行いました。その結果、陳澄波が描いた元の筆致と、修復の跡は違和感なくなじんでいるのです。
西薈芳
油彩キャンバス
南国のまぶしい太陽のもと、枝葉の茂る大木が道行く人々に木陰をつくりだしています。果物を山と積み、冷たい氷菓を売る屋台からは、熱帯の島の焼けつくような暑さが伝わってくるようです。着物、チャイナドレス、洋服と、文化的背景が異なる三人の女性が街角ですれ違います。わずかに背を丸め、天秤棒を担ぐ労働者の姿は、この土地でよく見かける素朴でたくましい日常の光景です。「西薈芳」の静かで穏やかな午後のひとときを描いたこの作品には、静寂の奥に、人びとの声がひそやかに秘められているかのようです。
西薈芳
「薈芳」という名は、「香りの集まる場所」を意味し、当時の酒楼(酒を供する料理店・料亭)によく見られました。酒楼は名士たちが集う社交場であると同時に、台湾料理の実験場でもありました。現在の台湾は、多様でルーツもさまざまな飲食文化で知られていますが、その多くの料理の起源は、日本統治時代の「酒家菜」にまで遡ることができます。
第二次世界大戦末期、入隊を目前に控えた台湾の青年たちが、嘉義にある「美人座料理亭」で壮行会を開いているる様子。当時の酒楼の様子をこの写真からうかがい知ることができる。
蔡栄順編纂『嘉義写真・第五輯』(嘉義市:嘉義市文化局、2013)115頁。
日本統治時代の西門町
史料に記載のある「西薈芳」の住所を古地図と照らし合わせることで、この作品が描かれた場所と視点を特定することができます。日本統治時代、西薈芳があった「西門町」には「遊郭」があり、酒楼が軒を連ねていました。嘉義の木材産業が隆盛を極めるにともない、この一帯の娯楽産業も大いに栄えたのです。
日本統治時代の酒楼「西薈芳」は「嘉義市西門町 3 丁目 101 番地」と登記されている。1931 年の『嘉義市街実測図』と現在の嘉義市地図を重ねてみると、「西薈芳」の位置は、現在の光彩街と民生北路の交差点の南東角にあたることが確認できる。陳澄波は、光彩街から西に向かって描いたと考えられ、そこからは、左手に「西薈芳」が、正面には「嘉林商会」が見えたことになる。
出典:嘉義市街実測図(1931)、中研院 GIS センター「台湾百年歴史地図」。
地図が語る「絵画」
地図は、この絵に関するさまざまな手がかりを教えてくれます。1936年発行の「大日本職業別明細図」には、西薈芳の斜め向かいに「嘉林商会」が記載されています。作品の中ほどに描かれた緑色の看板は、まさにこの店のものです。また、大木の影が西から東に伸びていることから、作品が描かれた時間帯は午後だったと考えられます。
大日本職業別明細図(1936)、中研院 GIS センター「台湾百年歴史地図」。
「氷旗」
白い布に赤い文字で「氷」と書かれ、青い波模様があしらわれた日本の「氷」の旗が、台湾の「屋台」に掲げられています。こうしたささやかな風景からも、庶民の暮らしに溶け込んだ文化の融合が感じられます。「かき氷」は日本統治時代に、日本からもたらされた食文化の一つでした。近代的な製氷工場が設立されると、冷たい氷菓を売る屋台が嘉義の街角に現れるようになったのです。
広告看板
高所に色とりどりの広告看板が並んでいます。おそらくいくつかの病院が共同で設置した広告なのでしょう。中央の2枚の看板には、「医院」の文字がはっきり読み取れますが、このうちの一つは、かつて総爺街にあった「益生医院」のものだと考えられます。一番左の看板は、嘉義の著名な医師、林淇漳が経営していた「長春医院」の広告だと推測されます。
1937年に撮影された古写真。背景には「嘉義市実業案内」とある広告看板が写っており、絵画に描かれたものと類似のものと思われる。
房婧如等編『歳月-嘉義写真』(嘉義市文化局、2000)87頁
鉛筆描きのデッサン
陳澄波のデッサン帳には、現存する油彩画の下絵と思われるものがあり、作品を理解するための手がかりが得られます。たとえば、スケッチと完成した作品『西薈芳』を比べると、構図が明らかに違うのがわかります。左側の建物は、意図的に高く描かれ、独特な遠近感を生み出す構図になっています。
風景のスケッチ(14)-SB09:32.7.27
1932 紙、鉛筆 12×18.2cm
芸旦
窓辺に見える女性は、酒楼で歌を披露し、客をもてなしていた「芸旦」かもしれません。社会的地位は低かったものの、多くの芸旦は教養豊かでした。日本統治時代、西薈芳にいた嘉義の名妓「彩雲」は、玉山の風景を詩に詠んだり、文人たちと詩を唱和したりするなど、文壇でもよく知られた存在でした。
城隍祭典
紙・鉛筆・淡彩
祭典の隊列からは熱気あふれる喝采が沸き起こり、高蹺(竹馬に似た歩行用具)に乗った演者たちは軽やかに身を翻し、人びとは目を凝らして祭りの見せ場を一つたりとも見逃すまいとしています。取り囲む群衆が出し物を興奮気味に見上げるなか、画家は静かに目を落とし、素早く筆を走らせています
ラフな鉛筆の線にシンプルな水彩が彩られ、祭りの情景が描かれています。スケッチブックを手に、熱気あふれる群衆の中に分け入った陳澄波は、1933年の「城隍遶境」に参加しただけでなく、故郷の豊かな光景を後世に伝える貴重な記録を描き残しました。
陣頭
廟の周囲を練り歩く「遶境」という隊列には、「芸閣」と呼ばれる山車のほかに、さまざまな「陣頭」も加わります。陣頭は台湾ならではの伝統的な民俗芸能で、祭りの隊列のなかでもひときわ目を引く存在です。その芝居や演技はごくシンプルなものが多いのですが、種類は非常に多岐にわたります。この絵に描かれた二人はおそらく場を盛り上げる「熱鬧陣」の演者で、主神の神輿が到着する前に、場を大いに盛り上げていたのでしょう。
布馬陣
状元帽をかぶり鞭を手にした男性が、馬の頭を模したかぶりものを肩から下げています。傍らには従者の姿も見えます。これは台湾の伝統的な祭りでよく見られる「布馬陣」だとわかります。この種のコミカルな芝居では、馬に乗るのが苦手な状元や地方の役人が主人公となることが多く、主役とお供の滑稽な様子が観衆の笑いを誘います。
金花
帽子の両側に立てられた飾り物は「金花」と呼ばれ、この人物が「新科状元」、つまり科挙の首席合格者であることがわかります。皇帝から賜った金花を帽子に挿し、誇らしげに町を練り歩く「状元郎」は、民間の芝居でよく見られる登場人物です。「状元遊街‐状元が街を練り歩く」という物語は、その後「布馬陣」の演目として広く上演されるようになりました。
高蹺
神様を迎える廟の祭り「迎神賽会」にはさまざまな陣頭が登場しますが、より観客の目を引くには、「踩高蹺」が効果的です。通常「踩高蹺」は独立した陣頭で、この二人の演者は、演劇的な演出を重視する「文蹺」に属しています。「布馬陣」の扮装や芝居を取り入れ、観衆の注目を集めようとしたのでしょう。
書画展覧会
毎年「城隍遶境」には多くの人が集まり、それに伴いさまざまな催しが行われました。「書画展覧会」もその一つです。1933 年、中国から帰国した陳澄波も完成したばかりの上海の風景画をこうした展覧会で嘉義の人びとに披露したのです。
淡彩画
陳澄波は油彩画が有名ですが、実は他にもさまざまな画材を用いた作品が多数あり、なかには408 点もの淡彩画が含まれています。これらの作品は 1930 年代初頭に次々と描かれ、特に上海で活動していた頃に制作された裸婦像が大きな割合を占めています。また、このほかにも淡彩を用いて、さまざなま人物群像を好んで描いています。
八月城隍祭典
油彩キャンバス
赤、黄、オレンジ、緑…にぎやかな祭りの行列がキャンバスに入り込み、やがてカラフルな色の塊へと姿を変えていきます。入り混じった線の乱れからも、通りを埋め尽くす人びとのざわめきや鳴りひびく太鼓や銅鑼の喧騒が聞こえてくるようです。
1929年に上海で教職に就いた陳澄波が夏休みに故郷へ帰ると、ちょうど旧暦8月初めの「城隍遶境」の時期にあたりました。陳澄波にとって、この民俗的な盛典は、故郷を代表する光景であり、欠かすことのできない創作テーマの一つでした。
城隍
「城隍」は町の守り神であり、冥府の司法を司る神でもあります。清代の台湾では、新たに府や県、庁が設立されるたびに城隍が祀られました。1715年に建立された嘉義城隍廟もその一つです。日本統治時代に入り、清朝により建立されたこの廟は民間で維持・管理されるようになり、今もなお嘉義の人々を守り続けています。
祭典
台湾各地で「迎城隍」の祭典が盛大に行われます。嘉義の城隍祭典は、1908年に地元の名士たちが提案し、台北の霞海城隍廟を模して、毎年、遶境(巡礼)が始まりました。これにより地域の繁栄が促進されていきました。日本統治の中期には、嘉義の木材業の急成長に伴い、木材商人も祭典の有力な後援者となっていきました。
遶境
「遶境」とは、信徒が廟から神像をお迎えし、地域を巡行する宗教行事のことです。民間信仰では、神様が巡視することで邪気が払われ、疫病の流行が防げると考えられています。伝統が重んじられていた時代、「遶境」は地域の人びとが総出で参加する一大行事でした。地域が一丸となって取り組むことで、住民たちの地元への意識や地域アイデンティティも強化されていったのです。
盛況
嘉義の城隍遶境は年々盛大になり、1930年代には、台湾各地から参加する人びとが十万人を超える規模にまで膨れ上がりました。規模が拡大するにつれ、隊列の演出も進化し、昼間は「芸陣」による技くらべ、そして夜は「館閣」による演奏が行われ、多くの人々が足を止めて見物したものでした。
芸閣(芸陣/館閣)
数人で担ぎあげる高台は、さまざまな祭典でよく見られる「芸閣」です。多くは商工団体が出資して作られたもので、伝統的な戯曲や民間に伝わる故事をテーマに、人びと(多くは芸旦か子どもたち)が扮装します。日本統治時代に行われた伝統的な祭祀「迎神賽会(神を迎えるための伝統的な宗教行事)」では芸閣のコンテストが行われることも多く、その装飾はますます華やかになっていきました。
1915 年に行われた祭礼行列の芸閣。
使用許諾:国立台湾図書館「日治時期期刊影像系統‧写真資料庫」記録番号:F110181。影像デジタルファイル名:hp_sxt_0748 _132_125-i.jpeg。出典:0748 132 台湾画報(昭和 12 年、1937)。 http://stfj.ntl.edu.tw/cgi-bin/gs32/gsweb.cgi/ccd=WeZV5p/record?r1=30&h1=0
旗幟
人びとの後ろに高く掲げられた旗は、神様の儀式で使う旗か、あるいは商店の広告かもしれません。人びとが集う「遶境」はめったに見られない貴重な祭典で、企業や商店は、この機会を利用して広告用の幟や道具を作り、祭典の隊列に加わったのです。自社製品の宣伝を行うと同時に、祭りの隊列をの華やかに彩るという役割も果たしていました。
斗笠
日本統治時代、嘉義の「城隍遶境」は、通常、旧暦の8月3日か4日に行われました。季節はすでに夏の終わりですが、北回帰線上にある嘉義はまだ気温が高く、汗が滴り落ちるほどの暑さで、朝から晩まで続くこの隊列は、町を練り歩く人たちにとっては耐え難いものでした。強烈な陽射しから身を守るために、作品に描かれている男性たちがみな斗笠をかぶっているのも、納得できます。
田園
1932 頃
油彩キャンバス
母親が子どもの手をつないで、ゆっくりと山の坂道を下りて行きます。やがて二人の姿は、小道の角にさしかかり、まもなく見えなくなるでしょう。前方からは、天秤棒を担いだ男性がしっかりとした足取りで坂を上ってきており、まもなく母子とすれ違おうとしています。遠くを見渡すと、畑の畦と農作物が平行に整然と並び、勤勉に働く農民の姿も点々と目に入ってきます。作品全体に穏やかで和やかな田園の空気が満ちており、私たちも、この小路を歩きながら、梢を揺らすそよ風を感じているかのようです。
日傘
日傘は明治維新以降に日本へと伝わり、やがて流行の舶来品となりました。日傘をさす女性の姿は、近代世界美術史において、それぞれの絵画の文脈によって、さまざまな意味を持っています。陳澄波が描いた台湾の風景画では、灼熱の厳しい気候という台湾固有の特徴を示すものとして描かれているようです
笠をかぶり天秤棒を担ぐ労働者
笠をかぶり天秤棒を担いだ労働者の姿は、陳澄波が郷土を題材とした作品にたびたび登場します。こうした装いの「庄跤人」(tsng-kha lâng)は、当時の台湾社会で最もよく見られた、ごくありふれた庶民の姿でした。彼らは、陳澄波のある思いを託された存在として、画家の絵筆に導かれるように、絵の中の土地をくまなく歩き回っているかのようです
曲がりくねった道
陳澄波の風景画には、この作品のように、手前に描かれた曲がりくねった道を利用して、観る人の視線を奥へと導く構図を用いた作品がいくつかあります。道が曲がり角で視界から消えることによって、画面には神秘的な雰囲気が漂います。この道をたどっていくと、一体どこに通じているのでしょうか。
『満載而帰』(大収穫)、油彩キャンバス、72.5×90.5cm、1936。
側溝
長くうねるように続くこの側溝は、おそらく衛生上の理由から掘られた排水溝だと思われます。日本統治時代の初期、植民地政府によって台湾にも排水設備が導入され、その後、下水道の設置も法令で定められました。この一見目立たない側溝も、衛生環境の改善に役立ち、台湾の近代化にとって重要なインフラ建設だったのです。
作画場所と年代
陳澄波が遺したこの鉛筆スケッチは、『田園』の基本構図だと考えられます。完成した油彩画に制作年の記載はありませんが、このスケッチから、嘉義近郊の丘陵地で写生をしたこと、そして1932年 7 月以降にこの作品が描かれたことがわかります。
嘉義(1)-SB09:32.7.8 1932 紙、鉛筆 12×18.2cm
往時の写真
「陳澄波先生謝恩会」と題された一枚の古い写真に、陳澄波が台湾の人びとと一緒に写っています。後ろの壁には、嘉義出身の医師・黄嘉列から贈られた二枚の扁額が掲げられ、さらに、その上に陳澄波の作品『田園』が高く飾られています。この不思議な「謝恩会」。その背景には、いったいどのような物語があったのでしょうか。
陳澄波氏(2 列目左から 5 番目)謝恩会
諸羅の町を望む
油彩キャンバス
広大な大地には緑があふれ、樹木の枝葉は翼のように豊かに広がっています。明るい黄色、若草色、そして陰りのある深い緑、明快な緑といった、複雑に重なり合うグラデーションが、まるで華やかな組曲を奏でているかのようです。遠くに見える建物は、ひときわ異なる青緑で彩られ、まるで絵の中に隠された宝石のように、微かな光を放ち、きらめいています。
連なりゆく緑の波は、地平線に広がる青い空と白い雲へと続いています。故郷の風景を見渡しながら、陳澄波は心に抱いた思いを、この豊かで生き生きとした美しい一枚の絵画に描き出したのです。
2 枚のデッサン
陳澄波が遺した2枚の鉛筆スケッチは、この作品と密接な関係があります。スケッチと作品を比べてみると、デッサンの段階で、すでに遠くの工場の煙突や建物に着目していたことがわかります。また、手前に人物を描く意図をもっていたことがわかりますが、最終的な油彩画にはその構図を採用しなかったことも読み取ることができます。
諸羅の町を望む-SB13:34.8.21 1934 紙、鉛筆 24×18cm
嘉義公園(2)-SB13:34.2.28 1934 紙、鉛筆 24×18cm
作画場所
2枚のスケッチのうち、1 枚には「諸羅の町を望む」、もう1枚には「嘉義公園」と記されています。前者は写生の主題、後者は写生をした場所であり、構図を考えた場所を示しています。現在の嘉義市は高層ビルが立ち並び、かつてのような景観も失われつつありますが、陳澄波の作品を通して、高台にある公園から嘉義市が見渡せた当時の風景を思い描くことができます。
煙突
市街地の外れでは、煙突から立ちのぼる黒い煙が雲と溶け合うように漂っています。これは、近代化の進む当時の嘉義市の様子です。日本統治時代の中期、台湾各地の都市では急速に工業化が進み、嘉義の西側にも製氷工場やレンガ工場、電灯会社といった新しい工場が建設されました。それにともない、高くそびえる煙突も、市街地のスカイラインに姿を現すようになりました。
田畑
1934 年、陳澄波がこの風景画を描いた当時、嘉義公園と市街地の間には、まだ広大な農地がありました。同じ時期に作成された『嘉義市区計画平面図』を見ると、「東門円環」より東にある多くの道路はまだ整備されておらず、東門公学校と嘉義農林学校は広々とした田畑に囲まれていたことがわかります。
嘉義市区計画平面図(1935)、中央研究院 GIS センター「台湾百年歴史地図」。
豊茂商店
黄色の壁面にわずかに緑色を帯びたこの建物は、嘉義の元町にあった「豊茂商店」だと考えられます。1934 年の作品『嘉義の町』でも、陳澄波は同じような黄色と緑を用い、当時嘉義で最も高かった 3 階建ての建物を描いています。市街地を俯瞰して描いたこの作品でも、陳澄波はこの特色あるランドマークを意図的に際立たせています。
大通り
電柱が立ち並ぶ近代的な道路が郊外の田畑を通り市街地へと続いています。これは日本統治時代に「大通り」と呼ばれた通りで、現在の中山路です。日本統治時代初期、この「大通り」は、噴水のある円環(ロータリー)から東へ放射状に伸びる3本の主要道路の一つで、沿道には市役所などの重要な機関がありました。この通りは、今でも嘉義市内の交通の要であり続けています。
洗濯
制作年不詳,油彩キャンバス
浅瀬の水辺で女性たちはしゃがみ込んで、力いっぱい衣服をもみ洗いしています。その働く姿は、まるで鏡のような水面に映し出されています。肩を並べて洗濯しながら、村の出来事や、家でのあれこれを語りあっているのでしょう。そばでは母親に連れられて洗濯場に来た子どもたちが、川で水遊びをしようとしています。
水辺で洗濯をする風景は、台湾の人びとにとって懐かしく親しみ深い記憶の一つです。この絵をじっと見ていると、談笑する声に交じって、バシャバシャと水のはねる音が聞こえてくるかのようです。
水辺での洗濯
上水道や地下水をくみ上げる井戸がまだ普及していなかった頃、洗濯用の水といえば、川や湖、用水路に頼るのが一般的でした。女性たちが集落の水辺に集まって洗濯物をもみ洗いする姿は、かつて台湾の田舎のいたる所で見られた光景でした。嘉義の製材工場にあった「杉池」と呼ばれる大きな貯木池でも、同じような洗濯風景が見られました。
洗濯だけじゃなく…
「男は外、女は内」という伝統的な価値観のもと、女性に与えられたのは、家にいて家事をすることでした。とはいえ、みんなで集って洗濯する場は、昔の台湾の女性たちにとって、貴重な交流の場でした。洗濯は家の外に出るきっかけとなり、ご近所の人たちと会話を楽しむ時間となったのです。
洗濯─伝統から近代化へ
日本統治時代の台湾では、急激な人口増加と産業の急成長にともない水質汚染が深刻化しました。そのため、近代的な公衆衛生の観点から、水辺での洗濯は改めるべきだという声が次第に高まって行きました。そうした中、西洋式の『洗濯屋』が都市部に現れ、これが後に台湾でのクリーニング業の始まりとなったのです。
台湾の印象的な光景
井戸端で洗濯するのが一般的だった日本人にとって、台湾の女性たちが川辺に集まって洗濯をする光景は、珍しく、印象的なものに映りました。当時、台湾の風物を紹介した「写真帖」には、水辺で肩を並べてしゃがみ込み、洗濯をする女性たちの姿が、植民地の特色ある風景として掲載されていました。
下田将美『南島経済記:附・朝鮮』(東京市:大阪屋号書店、1929)129頁の後の綴じ込み。
洗濯がテーマの作品
水辺での洗濯は、かつての台湾を象徴する光景だったことから、自然と画家たちの創作テーマとなりました。李石樵や李梅樹、藍蔭鼎といった、台湾の美術史に名を残す画家たちも、同じような光景を描いています。いずれの作品にも、画家の故郷や、その地で暮らす人びと、そして郷土の生活風景への思いが表現されています。
李梅樹『河辺清晨』油彩キャンバス、91x116.5cm、1970。
ピサロ『洗濯をする女』
西洋美術史にも、洗濯をする女性を主題とした作品は数多く存在します。例えば、フランス印象派の巨匠、ピサロ(Camille Pissarro)も、農村の女性たちが洗濯をする情景を好んで描きました。陳澄波が収集していた絵画の絵葉書の中にも、ピサロの作品が1枚あります。女性が身をかがめて水桶の中の洗濯物をもみ洗いする様子が描かれています
洗濯をする女
北回帰線立標
紙・水彩
縦貫鉄道の傍らにそびえ立つ方錐形の『北回帰線標塔』。高くそびえる記念碑は、日本帝国の栄光を象徴するとともに、南国台湾の特色をわずか二行の科学的な数字‐「北緯 23 度 27 分 4 秒」へと濃縮し、麗しの島「フォルモサ」といわれる台湾の豊かな多様性を育んできました。鬱蒼と茂る山々、紺碧の海、燦々と陽の光が降り注ぐ原野など、北回帰線上に位置するこの島の多彩な風景は、陳澄波の絵画の中で、他に類を見ないほどの色彩美によって見事に表現されています。
二代目の北回帰線標塔
1908 年、台湾総督府は縦貫鉄道の全線開通を記念して、鉄道と北回帰線が交わる付近に記念碑を建立しました。以来、この北回帰線標塔は嘉義を代表するランドマークの一つとなりました。初代の標塔は風害によって損壊したため、1915 年に二代目の標塔が建てられました。陳澄波の作品に描かれているのは、この方錐形をした二代目の標塔です。
標塔に刻まれた文字
この北回帰線標塔には「北回帰線立標」の文字が記されています。しかし、文献資料によると、実際の碑文は「北回帰線標」と刻まれており、その下には経緯度を示す小さな文字が二行に分けて記されていることがわかります。近代絵画においては、画家が重視する表現の細部の捉え方が異なるため、このような省略はよく見られる現象です。
杉山靖憲『台湾名勝旧跡誌』(1916)、『台湾拓殖画帖』(1918)。
1918年発行の『台湾拓殖画帖』に掲載されている二代目の標塔の写真からは、経緯度の数値「北緯 23 度 27 分 4 秒」と「東経 120 度 24 分 46 秒」を含む標塔の文字や細部の構造まではっきりと確認できる。これを陳澄波の作品と比べてみると、多くの細かな違いが見られ、非常に興味深い。
標塔建立の目的
当時、日本が台湾の縦貫鉄道を全線開通させたことは、植民地台湾における画期的な建設工事の成果を象徴するものでした。また、北回帰線上に記念碑を建立することで、経緯度測量の正確さを世界に示すとともに、地理的に重要な北回帰線を超えて南方へと勢力を拡大しようとする日本帝国の実力を象徴するものであったと考えられます。
陳澄波と水崛頭公学校
1920 年、陳澄波は嘉義公学校から郊外の水崛頭公学校に転任しました。北回帰線標塔は、ちょうど嘉義市とその学校の間に位置していました。つまり、この巨大な記念碑は、陳澄波が嘉義市と学校の間を行き来する際に必ず目にした風景であり、この作品もその頃に制作されたものかもしれません。
陳澄波と「モダニティ」
日本統治時代の台湾では、機械や電気、鉄橋といった新しいものが人々の暮らしに次々と現れました。こうした「現代性(モダニティ)」を象徴するモチーフは、陳澄波の絵画において頻繁に登場し、強調される重要な要素でした。北回帰線標塔も一種の近代的な光景として、そうした理由から陳澄波の創作テーマの一つとなったのかもしれません。
水彩画
1913 年、18 歳の陳澄波は台北の総督府国語学校に入学。水彩画家の石川欽一郎の指導のもとで、西洋美術を学び始めました。現存する作品から、この時期は主に水彩画を描いていたことがわかります。その後、1924 年に日本内地の学校へ進学してからは、しだいに油彩画の世界で自らの道を確立していきました。
荷車(牛車)
家畜に引かせる荷車(一般的には牛車)は、かつての台湾の農村を象徴する風景の一つでした。日本統治時代に交通インフラが徐々に整備されると、牛車の役割もしだいに機械や車輌に取って代わられていきました。この作品は近代をテーマとしていますが、牛車をアクセントとして描くことで、過去と現在の対比を表現しようとしたのかもしれません。
水牛ト牛車 BAFFALO & OX-CART、台湾大学日治時期絵葉書、arrowntul-tw-1609621_2102_001
『台湾写真帖』(台湾総督府官房文書課編、1908年)93-94 頁。
日本統治時代、牛車は台湾を代表する風景の一つだった。総督府が刊行した『台湾写真帖』においても、牛車を紹介する独立した一節が設けられている。小説家の呂赫若は 1935 年に「牛車」をテーマとした左翼色の濃い小説を日本の雑誌『文学評論』に発表した。この作品では、牛車を操る底辺の労働者が、植民地政府によってもたらされた機械化の波に抗いきれず、次第に没落していく様子が描かれている。
1919 年、雑誌『台湾鉄道』に掲載された「鉄道と牛車」という記事は、近代的な交通インフラの建設と台湾伝統の牛車との間で起きていた競合関係について分析している。
北回帰線標塔
油彩キャンバス
夏休みを利用して台湾に戻った陳澄波は、再び嘉義市郊外の野原―北回帰線標塔のある場所を訪れたのかもしれません。数年前に水彩で描いた塔は、すっかり新しい姿になっていました。陳澄波は、以前とは異なる技法でこの人工的な現代の風景に挑みました。ダビデとゴリアテの戦いのように、巨大な標塔の前に立ち、どの色を使おうかと絵具箱をのぞき込んでいたのかもしれません。陳澄波は油絵具をどのように駆使して、この強敵である塔を手なずけようとしたのでしょうか。
三代目の北回帰線標誌
1923 年、後の昭和天皇、当時の皇太子裕仁親王殿下が植民地台湾を視察に訪れました。この盛大な「東宮行啓」に備え、総督府は北回帰線標塔を石造りのものに建て替えました。三代目の標塔は 1935 年まで存続しましたが、「始政40 周年記念博覧会」のために再び建て替えられることとなりました。
先端の球体
標塔の頂部にある球体は、この記念碑の特徴の一つです。三代目の標塔は皇族の訪問に合わせて建立されたため、この球体は「日の丸」を連想させるものでもありました。また、古い写真と比べると、球体が実物よりかなり大きく描かれていますが、おそらく陳澄波が意図的に用いた手法なのかもしれません。
昭和 5 年版『嘉義郡概況』6-7頁
標塔の描写
古い写真を見ると、三代目の標塔の正面に「北回帰線標」という文字と、建て替え時に測量した経緯度が記されていることが確認できます。しかし、これらの細部は、陳澄波の作品ではすべて簡略化されています。また、実際の比率や、作品における遠近表現と立体感を比較すると、作品と実景との間には多くの興味深い違いがあることがわかります。
陳澄波は三代目の北回帰線標塔の写真つき絵葉書を所有していました。標塔正面部には、「北緯二十三度二十七分四秒五一」「東経百二十度二十四分四六秒五」と、小さな文字で経緯度がはっきりと記されているのが確認できます。この写真と作品を比較してみると、実際の標塔は立体的な三角柱ですが、陳澄波はこの形状を正確に表現していないことがわかります。また、標塔の先端にある構造物の大きさも、絵ではかなり実際より誇張して大きく描かれているようです。
油彩画
1924 年、陳澄波は東京美術学校に進学すると、次第に油彩画を主に描くようになりました。この風景画は、油彩画を学び初めた頃に描いた初期の作品です。数年前に描いた水彩画の北回帰線標塔と比べると、この作品は油彩絵具を使っているため、空のくすんだ色合いや草木の深緑がより豊かに表現されています。
サイン
陳澄波が好んで使用したサインは、創作時期によって異なります。この作品の右下には、アルファベット3文字「C、T、H」が重なっているサインが見られます。これは「陳澄波」の日本語読みである「チン‧トウ‧ハ」のアルファベットの頭文字から取ったものです。この独特なサインには、陳澄波独自の工夫が感じられます。
X線撮影による分析
X線撮影を用いた絵画の分析は、美術史研究にとって極めて有効な手段です。この技術によって、油絵の下に隠された様々な手がかりを得ることができます。この作品のX線写真を見ると、陳澄波が上半分に修正を加えたことがわかります。もし、最初の構想のまま描いたとしたら、空と雲はどのような姿になっていたのでしょうか。
三代目の北回帰線標誌の絵葉書を見ると、人と標塔の大きさの違いがわかる。
(嘉義)北回帰線標塔(嘉義より三里)
台湾大学デジタルアーカイブス所蔵 日本統治時代の絵葉書 ntul-tm-ntuv02005_001
木材工場
紙・水彩
レールや工場、煙突、ケーブル、巨大なコンクリート建築、そして轟音を響かせる機械──「東洋一」と謳われた嘉義の製材所には、近代化を象徴するさまざまな光景が集結していました。1920 年代初頭、嘉義全体は木材産業を中心に発展し、やがて豊かな大都市へと成長します。嘉義の北郊に位置する製材所は、この変革の原動力となりました。
陳澄波の少年時代、嘉義は大きな変化を遂げました。この水彩画は、その歴史的な変遷を物語る確かな証と言えるでしょう。
製材工場
この3 階建ての鉄筋コンクリート造りの建物は、1914 年に竣工した製材室です。杉池と呼ばれる貯木池で熟成された原木は、コンベアで 2 階に運ばれ、そこで裁断されて材木となり、乾燥などの工程を経て民間業者に売り渡されました。この建物は 1941年の地震で倒壊したため、総督府は二代目の製材室を建設し、戦時中も製材工場として稼働し続けたのです。
製材工場のローラーコンベア。
出典:嘉義街役場『大嘉義』(大阪市:英進舍工場印刷、1929)
動力室
1913年に建造された動力室は、嘉義で最初の火力発電所であり、鉄筋コンクリート造りの建物としても初めてのものでした。ここで発電された電力は、製材所内の機械だけでなく、周辺の北門地区にも供給されていました。1931年、製材所の電力は嘉義電灯株式会社から供給されることになったため、動力室は配電所として使われることになり、発電所としての役目を終えました。
鋸屑室
製材の工程で発生した木くずは、この鋸屑室に集められて貯蔵され、その後、発電用の燃料として動力室へと運ばれました。木くずの搬送には、作品の手前に見える鋸屑室に続く2本のコンベアが使われていました。現在は、鉄筋コンクリート製の基礎部分だけが残り、上部の木造倉庫はすでに失われています。
煙突
動力室の蒸気ボイラーが轟音とともに稼働を始めると、灰黒色の煙が排気ダクトに吸い込まれ、高さ120 フィートの鉄製の煙突から空高く吐き出されていきました。空高くそびえるこの煙突は、嘉義における初期の近代化を象徴する風景の一つで、町のあらゆるところからその姿を望むことができました。しかし、1965年の地震で倒壊し、現在は排気ダクトの一部だけが残されています。
天井クレーン
高くそびえる三角形の鋼鉄フレームは、米国「アリス・チャマーズ(Allis-Chalmers )社」製の天井クレーンで、嘉義製材工場を象徴する景観のひとつです。貯木池のそばに設置された2基のクレーンは、軌道に沿って平行に移動し、その上部はワイヤロープでつながれていました。ロープ上を行き来する吊りフックを使い、木材の搬送が行われていました。
乾燥室
カタツムリのような形をした長方形の建物は 1914 年に建てられた乾燥室で、台湾に現存する最も古い蒸気乾燥設備です。室内には鉄製の蒸気管が設置されており、そこから熱風が送り出されます。木材はレールの上を出口に向かってゆっくりと移動しながら、乾燥と水分調節が行われます。余分な水蒸気は、屋根にある 2本の煙突から排出されていました。
絵の裏側の文字
1921年8月、欧州歴訪を終え帰国の途についた裕仁皇太子殿下(後の昭和天皇)が乗船されていた船が台湾海峡を通過したその日は、ちょうどこの水彩画が完成した日でもありました。陳澄波はこれを記念して、絵の裏にその旨を記しています。日本統治時代、皇族の動向は常に人びとの関心を集めており、台湾も例外ではありませんでした。
作品の裏面にある二つに分けて書かれた文。
東宮殿下御召鑑は本日八月弐拾八日正午に台湾海峡に入らせられ二十九日日出む頃、此節台湾の沖合を御通過あらせらるゝを以てこの日は研究記念とて写生せる者なり
10. 28/8.
あまり紫色ヲ図るへき者也、多少もう少し 紫色にも変化があるたらう、熱中故ますます
製材工廠
油彩キャンバス
セピア色に変わってしまった古い写真ですが、油絵の具の色こそ失われていますが、風景は今なお生き生きと鮮やかに息づいています。クレーンの滑車が勢いよく回転する傍らでは、長い竿を手にした作業員たちが、池に浮かぶ丸太と格闘しています。敷地には巨大な原木が山のように積み上げられ、戦争が終わったばかりとは思えないほど、活気に満ちた様子が伝わってきます。
陳澄波は自身の絵画人生の初期と晩年に、ここ嘉義の製材所を訪れ作品を描いています。2つの作品を見比べてみてください。どのような違いが見られるでしょうか。
貯木池
広大な貯木池は嘉義の人びとから「杉池」と呼ばれています。ここにはタイワンベニヒノキやタイワンヒノキなど、水に沈まない一級木材が貯木されていました。この種の木材は、水に浸すことで品質を保つことができます。さらに、原木から水中に溶け出すアルカロイドには洗浄力があるとされ、近隣の住民たちはこの「杉池」でよく洗濯をしていました。
二級品の原木
阿里山から製材場へと運ばれてきた大量の原木は、検尺を行った後、それぞれの等級に応じた方法で貯蔵されました。高値で取引される一級品は貯木池に送られ、それ以外の二級品は陸上の貯木場に山積みにされ、買い手が現れるのを待ちました。
作業員
長い竿を持ち、笠をかぶった作業員たちが、貯木池に浮かぶ巨大な原木を操っています。製材所の敷地は広く、大型機械が導入されていたとしても、やはり大量の木材搬出は人の力を頼らなければなりませんでした。なかでも貯木池での作業はかなり危険で、少しでも気を抜くと、足をすべらせて池に落ち、命を落とす危険すらあったのです。
クレーン
固定式のクレーンが軌道上を行き来しています。貯木池のほうに突き出した片持ち梁から吊り下げられたワイヤロープは、池に浮かぶ巨木をいつでも吊り上げられるように準備されています。史料によると、この製材所には、象徴的な天井クレーンのほかに、蒸気機関で動く荷重量3トンのドイツ製クレーンもあったとされています。陳澄波が描いたのは、もしかするとそのクレーンかもしれません
1929 年出版の『大嘉義』にもそのクレーンの姿がある。
出典:嘉義街役場『『大嘉義』(大阪市:英進舍工場印刷、1929)
台湾省第 1 回美術展覧会
1946年10月、中華民国政府により「台湾省」として接収された台湾では、楊三郎や郭雪湖らの画家たちによる積極的な働きかけによって、日本統治時代の「府展」にならった、「台湾省第 1 回美術展覧会」が台北の中山堂で開催されました。台湾の画壇で活躍していた陳澄波も、招きを受けて第一回省展の審査委員を務めました。
所在不明の作品
1947 年の二・二八事件以降、陳澄波の名は一種のタブーとされ、作品も秘匿されたり、破棄されたりしました。現存する史料によると、この作品は「省展」終了後に「行政長官公署」によって購入され、蒋介石に献呈されたことがわかっています。しかし、その後の所在は現在も不明のままで、現存しているのは複写写真のみです。