100年後に1から始める——台湾文化協会100周年、進撃の啓蒙時代

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台湾文化協会はちょうど100年前、近代文明を急速に吸収し、社会のための前例のない「啓蒙」を目指した知識人たちにより設立されました。

日本による統治が安定してきた頃、知識人たちは熱意をもって行動し始めました。思考の最前線にいた台湾人は、武装して日本に抵抗するのではなく、文化的な思考により台湾人の自律的な立場を勝ち取ろうとしました。しかし、その道は一つではありませんでした。1927年、文協は左右両派に分裂しました。団結していなかったものの、彼らは各自で大衆に啓蒙のステップを踏むように呼びかけ続けました。1934年、「台湾文芸聯盟」という名前で再び集結し、「台湾人の台湾」という花がまさに咲き始めるかのように見えました。2年後、「台湾文芸聯盟」も解散してしまいましたが、植民地における文協の思想の陣地戦の波は次々と押し寄せていました。1945年に終戦を迎えると、台湾人の中で文化運動への熱が再び燃え上がりましたが、まもなく発生した二・二八事件や白色テロにより消し止められてしまいました。しかしながら、文協は民主主義と自由を追求する啓蒙のインクを枯らすことなく書き続け、今日に至っています。

ストーリーテラーが大衆に宛てた6通のラブレターが会場の各エリアに散らばっています。会場で封筒を受け取ってラブレターを入れ、記念にしましょう。

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図説1、2:展示会の実際の様子。

図説3:《文協》アニメーション
1910年代の大正時代、徐々に文明を吸収し、啓蒙主義と民主的な政治参加の波に乗り始めた台湾の若者たちが結社の設立を呼びかけ、台湾人の境遇を改善するために日本の統治体制に対して果敢に声を上げました。1921年10月17日、台湾の歴史において最も重要な協会である「台湾文化協会」が設立されました。志ある若者が先頭に立って行動を開始し、それぞれが本領を発揮して仲間を探しました。蔡培火の白話字、林献堂の夏季学校、黄金火の文化劇団など、ある者は寺院を探り、街をくまなく歩き、大衆が知識を求めて啓蒙に目覚め、いつの日か自立、自由、自治の生活を送れるようになることを信じて提唱し続けました。彼らは情が深く、美しい未来を信じていました。

図説4:《文協人現る》インタラクティブインスタレーション
このエリアでは、動画によって頼和、盧丙丁、李献璋、陳澄波、林氏好、楊逵といった1920~1930年代の代表的な人物6名が現代に再び出現します。「ディープフェイク」と現代の俳優の吹き替えによる100年後の人々の言葉を通じ、文協の人々のロマンあふれる気持ちを感じましょう。

啓蒙の波の上であなたを待つ——1920~1930年代における文協の人々のラブレター

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知識人たちは熱心にあらゆる方法で大衆の参加を呼びかけました。それはまるでラブレターであり、啓蒙は赤い糸でした。かといって、文化運動は人々を苦しみから解放し、幸せをもたらすのであろうか?そのような疑問を持ちながらも、大衆が記事を読み、声を聞いて理解すれば、世界は変わるであろうことを期待していました。彼らは日本の植民地支配を恐れず、本や雑誌を抱えて人々の間を歩き回り、知識を単なる背景にするのではなく、新聞を広げて読み、さまざまな書籍に関する講演を行いました。社会運動の最前線にいた蔡培火は、教会のローマ字が台湾の信者が世の中の情勢を知る基礎となっていることに気付き、積極的に展開した「白話字運動」はピークに達しました。

大衆を啓蒙するという理想とあふれる思いは各地の組織に枝分かれしていきました。1927年、台湾民衆党、新文協、農民組合などが、それぞれの方法で大衆にラブレターを書きました。同様にフェミニズムでも、市場で声を上げた葉陶や彰化婦女共励会設立などの動きが見られました。台湾はどのような台湾になるべきか?台湾人はどのような生活が送れるのか?文協人は分散しながらも同じ目標に向かって歩んでいました。

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図説1、2:展示会の実際の様子。

図説3:《台湾民報》1号~50号合冊
1923年4月15日に林呈禄や黄呈聡らにより東京で発行されました。総督府の官報である『台湾日日新報』や『台湾民報』とは異なり、新しい知識や思想、中国の政治情勢、台湾議会設置運動、台湾文化協会のお知らせ、文芸コラムなどを掲載し、台湾新文学発展の礎となりました。1927年8月1日、日本語版の追加を条件に台湾でも発行されることになり、1930年に増資および再編され、『台湾新民報』という名称に改められました。

図説4:蔡培火の手紙の記録ノート
蔡培火は1910年代に台湾同化会で林献堂と出会いました。同化会の解散後は失業し、台湾の境遇を憂慮していた彼は、日本に行き学問を究めることを決意しました。旅費が足りなかった彼は数回会っただけの縁であった林献堂に手紙を書き、現在の境遇における考えと未来の理想や目標を述べて支持を得ようとしました。内容の多くは漢文、経典の引用で、その後も常に林献堂の漢詩に敬意を示しました。このノートは近代台湾における新たな知識人の第一世代が、海外留学するための資金調達を記録したものであると言えます。困難を乗り越えて視野を広げようとする若者が、自分の未来のために構築した資金調達プラットフォームなのです。すべての手紙の下書きからは熱意と誠実さがあふれています。そのほか、妻(呉足)の父親である呉紅毛、台南の高長の家族である高再得医師などからも資金を募りました。

こんなに近くにいる私たち——1930~1940年代における知識人たちと大衆の出会い

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1930年代は、美術、絵画、音楽、劇場などの台湾文芸が熱く輝いていました。知識人たちは大衆の間を歩き回り、階級、労働、日常における人々の声を記録しました。彼らは地域と直接向き合いながら文芸創作へと変化させ、人々と近い距離で交わりました。伝説、神話、笑い話など、路地で集められた民間文学も熱く語られました。李献璋の『台湾民間文学集』は頼和に高く評価されました。黄周は『台湾新民報』で台湾の歌の保存価値を示しました。当時、台湾の若者が設立した「東京台湾芸術研究会」は雑誌の創刊に際し、「私たちの心から湧き出る新たな思想や感情によって、台湾人に必要な新たな文学を創り出す。私たちは新しい『台湾人の文芸』の創作を目指す」と宣言しています。

当時、文学運動や文化運動は徐々に成熟し、文学の幅が広がり、文化の深みも増していきました。1934年、全台湾の文芸家により設立された「台湾文芸連盟」では「世界の中心で咲く私たちの芸術の花を見よ!」と叫ばれ、カラフルな絵画の力が世の中に広がりました。顔水龍は工芸と美術に、陳澄波は美術学校に身を投じました。帝展(日展)で認められた台湾の画家も連盟に加入し、雑誌『台湾文芸』で美術に関する個人の見解を発表したり、作家の言葉を唱和したりしました。流行歌も例外ではありませんでした。コロムビアで制作された楽曲は、一躍台湾語の代表曲となりました。新世代の音楽的才能にあふれていた女性、林氏好は世界の思想を吸収し、台湾の文化運動を刺激しました。

皇民化運動が席巻した1940年代、黄得時などの郷土文学を提唱した作家は、歌仔戯(台湾オペラ)や布袋劇など古い演劇に注目し、郷土の文化を維持するため、日本の剣客や歴史小説の要素を加えました。戦時中は台湾の文化運動が消滅したかのように見えましたが、実際には地域や民族文化に姿を変え、台湾の文学や芸術を守るべく大衆との「共同創作」により生き残っていました。

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図説1、2:展示会の実際の様子。

図説3:『台湾民間文学集』李献璋編著
1936年4月に台湾新文学社が出版した『台湾民間文学集』より。歌謡と故事が収録されています。歌謡編は民謡、童謡、謎語(なぞなぞ)の3つに分類されており、故事編には頼和、廖漢臣、楊守愚など各地の作家14名による23作の伝説や故事が収められています。頼和は『序』にて、「すべての歌謡や故事が当時の民情、風俗、政治や人々の本当の思想や感情を表している」と述べています。

図説4:泰平レコード、月下揺船、紗窓内の楽曲リスト
1934年、泰平レコード会社の文芸部は陳運旺、趙櫪馬の主導の下、台湾語の流行歌の制作と発行を始めました。作品番号82002は林氏好の独唱と泰平管弦楽団の伴奏で、A面は守民(盧丙丁)が作詞した『月下揺船』、B面は同じく守民が作詞し鄭有忠が作曲した『紗窓内』です。これは林氏好と夫の盧丙丁による新しい形の共演でもありました。

立ち上がって一緒に振り返る光源の影——100年後に辿る文協の人々の足跡

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1920年代に台湾文化協会が起こした文化運動を振り返ると、志ある若者は大衆の娯楽、寺院、街中、酒場の中を歩き周り、公会堂、講演会、書店の開設、雑誌創刊、劇団設立を通じて新たな分野での大衆を求めました。

歴史は、昔のことでありながらつい最近のことのようでもあります。100年前に台南文化劇団が『恋愛の勝利』を稽古した武廟のお堂。100年後には、隣にある月下老人が「愛を祈る巡礼地」となりました。教科書に載っている台北市太平町3丁目28番地の台湾民報社台湾支局は、100年後に義美食品の店舗(延平北路店)となり、日常的にアイスクリームが買える場所になっています。しかしながら、武廟や義美食品を訪れると、重なり合った時空の中で当時の若者とすれ違ったような気分になります。文協の精神は、目に見えるものと見えないものの狭間で広がり続けているのです。今、私たちは大衆の一員として文協の足跡を辿り、過去と現在のラブレターを重ね合わせることができます。

文協の人々から文化人まで、いつの時代においても知識人たちは理想の「国」を求めて果敢に立ち向かってきました。絶え間ない文学史の執筆はまさに文協から始まったのです。過去と向き合うだけでなく未来へと発展していく。それが文協の精神です。戦後の1970年代末の郷土文学論戦、1980年代の台湾文学正名運動、1990年代の多音交響、2020年代の文学の分野横断的改編など、希望を求める大衆の障壁を打ち破る努力こそが文協の精神を証明しています。

ここでは、1920年~2020年の文化運動を記憶し、進化しつづける文化運動を描き出します。

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図説1:展示会の実際の様子。

図説2:AR写真。

図説3:文協の地図〈文協を歩く〉

図説4:『午後の懸崖』フィルム
『午前の懸崖』は1985年に龍瑛宗が出版したもので、このフィルムは本のタイトルを引用しています。影像の中で、文学愛好家(私)が台湾文学(あなた)に宛てたラブレターを通じ、「あなたと私」が初めて出会った1920年代に遡り、当時の状況から「私」が「あなた」の運命を追求し続けます。追求には終わりがあり、「あなた」に関する論争が文学の歴史に変化をもたらします。「私」が心配しながら「あなた」の行方を探すと、「あなた」の姿が徐々に明らかになります。それは困難だった台湾文学の形成と困難な存続の過程でもありました。

葉石涛はかつて「土地がなければ、文学もあるはずがない」と語りました。「私」には崖の上に立つ「あなた」が、揺るがない勇気と決意をもって「文学がなければ、土地もあるはずがない」と言っているように見えます。

100年のラブレター、文協100周年、あなたが引き継ぐ「1」の続き

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2021年のあなたは、文協100周年の会場で100年の時を経た6通のラブレターを受け取りましたか?

啓蒙により生まれた文化運動は、まるで恋愛の過程のようなものです。すべてのラブレターに熱狂、情熱、苦難、衝動の月日における文化人からの大衆への呼びかけ、敬慕と期待が記されています。この過程で知識人たちは100年間にわたり大衆の生活に根付く不滅の種を植え付けました。今度は、あなたがこのラブレターを読む番です.....

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図説1:展示会の実際の様子。

図説2、3:AR写真。

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