【日本語】陳澄波戸外美術館

「陳澄波戸外美術館」では台湾初代の西洋画家陳澄波(1895-1947)が創作した12点の淡水風景画を展示しています。絵の中に残された様々な時空の手掛かりを余すことなく紹介し、観客を絵の中に連れ込み、昔の淡水の歴史の風采を訪ねます。
1930年代の中ごろ、陳澄波は頻繁に淡水を訪ね、油絵、万年筆或いは鉛筆など、様々な媒材を用いて、創作意欲を掻き立てる当地の自然と文化の景色を、キャンパスやスケッチブックに描きました。これらの受け継がれる画作は大変貴重なものであり、同時期の台湾からアジアにかけて、一人の画家がこのような大量の、しかも同じ場所での風景画作品を残すのは珍しいことでした。
芸術史おいて特別な価値があるだけでなく、この画家は作品で淡水の歴史の移り変わりを描いています。陳澄波の作品で描かれた多くの景色と建物は、かなりのものが完全な形で今も残っています。実際に近隣の九崁街、紅樓、淡水礼拝堂、淡江中学、海関埠頭など、描かれた有名な歴史スポットを探索することができます。これらの貴重な芸術作品を通じて、じっくりと淡水という小さな町の歴史物語を読むのもいいでしょう。
この展示は淡水区役所と財団法人陳澄波文化基金会が協力して企画したものであり、有名な古跡である淡水礼拝堂前のアートホールで展示しています。Beaconのモバイルガイドシステムを通じて、参観者は携帯電話を使って、絵を鑑賞すると同時に、リアルタイムで画面に表示される細部の解説を読むことができ、同時に中国語、英語、日本語の音声ガンダンスを聞くことができます。

淡水風景(一) 1935年 木版油彩 19×24㎝ 個人蔵

淡水礼拝堂後方の小山の上に立った陳澄波の目に映る町の風景は、調和のとれたコントラストを呈している。空と川の水面が浅い青緑色である一方、屋根瓦、レンガ塀、木の幹、帆船はどんよりとした紅色だ。淡水特有の潮の香りがする湿った空気が絵の中にわき上がる。岸の景色を描く豪放な線が躍動する一方、遠くの山水はひっそりと押し黙ったままである。川に浮かぶ船が水面に静かに影を映し、木の梢の揺れがそよ風の隠喩になっている。赤色と緑色の融合、動と静の衝突が独特の美感を生み出す。皴擦の技法により樹冠には油絵具の大きな青緑が描かれ、同色の水面と空からは旺盛な生命力が解き放たれている。

1. 樹木
若々しく盛んに枝を広げる一本の広葉樹が近景に陣取っている。木のまわりの背の低い植物も躍動的である。軽やかな筆によって描かれた木の右側の揺れる影が、梢をなでるそよ風を暗示している。

2. 線使い
 淡水を主題とした陳澄波の他の作品とくらべると、この小型の木製パネル画の筆の運びは複雑で、油絵具も重厚である。上海から台湾へ戻った陳澄波は中国水墨画からの衝撃を受けていたが、それがこの絵の構想にも影響を与え、線の動きに特に気を使わせることになったのかもしれない。

3. 帆船
 ジャンク船が水面をゆっくりと進んでいる。河川運送、近海漁業、遠洋航海などさまざまな用途に利用されたジャンク船は、数百年前からすでに淡水河口を航行していた。陳澄波は帆船と陸上の建築物の色をあえて同じ赤レンガ色にしているが、これは両者に折り重なる重厚な歴史の隠喩になっているのかもしれない。

4. 砂州
水面に描かれている浅緑色の部分は、緑色植物におおわれた砂州である。台湾文学者の王昶雄の作品、『淡水河の漣(さざなみ)』には、「静かに横わっている緑の中州」という淡水河の描写があり、また清らかな川の流れや多彩な街の風景が「夢の殿堂に、眩いばかりの乙姫の裳を飾る天成の色彩」であるとも記されている。陳澄波の心に映る淡水の色も同様だったのではないか。

5. 観音山
 観音山の南麓が画面右側の遠景に入っている。湿気と暖かい日差しに包まれた対岸の山肌はうるおいのある黄緑色に染められている。明るく温かな色合いが近景の樹冠とつながり、大自然の力が遠近の間で躍動している。

6. 淡水礼拝堂
淡水礼拝堂の時計塔が大樹の背後に控えめに輪郭を現わしている。陳澄波の感覚の中では、小さな町にそびえるゴシック風の尖塔も、それほど際立った存在ではなかったようである。一方、洋館の赤レンガは周囲の閩南式建築の瓦の色と溶け合うことで、全体的な調和を生み出している。



図3 : Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

図4 :Photo Credit:http://taipics.com

淡水ゴルフ場 1935年 木版油彩 23.5×33㎝ 個人蔵

多種多様な草木の緑が画面に満ちあふれている。水面も空も一面、碧玉のような色に染まっている。左側の一本の大樹がゆったりと腕を伸ばし、空にまで届く。遠景の観音山は川の流れや雲の動きと連動し、波のように連綿とした起伏を作り出している。ゴルフ場わきの背の低い木々の林の中にいる陳澄波は、大自然の旺盛な生命力を油絵具の色彩に練り上げ、小さなキャンバス上に純真で愛すべき緑色の世界を描き出す。

1. 樹木
 左上の大木はコースの端を示す目標樹だろうか。亜熱帯台湾の林は千変万化で、陳澄波の風景画の中で一貫して重要な題材となっている。この絵においても意識的に点、撇、擦、勾などの技巧を用い 、異なる樹木の幹の線や樹冠のさま、葉の形を表現している。

2. 低木林
 ゴルフ場には視野の開けた風景ときれいな芝が必要である。通常植えられる植物も、それほど背が高くなく、落ち葉の少ない常緑樹が選ばれる。絵の中の赤緑色の葉はおそらくホルトノキであろう。淡水ゴルフ場周辺の自然の植生にも見られる木で、葉は落ちる前に緑から赤に変わる。

3. 赤色
生い茂る草木の中で、紅葉やピンの小さい旗のいくつかの赤い点が躍動しているのが目をひく。陳澄波の作品では色が対比的に配されることが多いが、緑の中に浮かぶあでやかな赤もよく見られる配色である。

4. グリーン
 浅緑色の芝はゴルフ場のグリーンである。各コースの末端にグリーンが置かれ、その中にカップが穿たれている。ゴルファーは球をグリーンに乗せた後、しゃがんで芝目を読んで球の転がりを予測し、適切な力加減でカップインをねらう。

5. 観音山
 観音山は台湾でもっとも遅い時期に形成された火山である。数十万年前に三度噴火して溶岩、砕屑岩、火山灰が堆積し、絵にあるような険しく折り重なった十八連峰ができあがった。清朝期から良質な安山岩を産出しており、今日でも山麓で採石がおこなわれている。

6. 淡水河
 ヒスイのような青緑色の淡水河が観音山のふもとから北側の河口に向かって流れている。淡水河は台湾北部を潤し、流域住民のための貴重な水源となっている。18世紀以降、川沿いに次々と商業地が開けて多くの帆船が往来するようになり、水運が発達した。

7. 淡水ゴルフ場
 1919年に完成した台湾初のゴルフ場である。ゴルフ好きの台湾総督府民政長官下村宏らが工事計画を熱心に推し進め、多くの名士が愛好者となった。今日老淡水と呼ばれるこのゴルフ場は数えきれないほどのトップゴルファーを育て、台湾ゴルフ史において重要な位置を占めている。



図3 :Photo Credit:岡田紅陽撮影,臺灣國立公園協會編,《臺湾囯立公園寫真集》(臺北市:臺灣國立公園協會,1939),照片編號12,〈淡水ゴルフ場より觀音山を望む〉,中研院臺史所臺灣古籍研究資料庫。

図4 :Photo Credit:臺灣總督府交通局鐵道部編,《風光臺灣》(臺北市:臺灣總督府交通局鐵道部,1939),頁28,〈淡水二景〉,中研院臺史所臺灣古籍研究資料庫。

淡水夕照 1935年 キャンバス油彩 91.5×116.5㎝ 個人蔵

崎仔頂の高台から海の方向をながめている。小さな港町と世界が連結した歴史風景が、陳澄波の眼前の烽火街に沿って広がる。礼拝堂の鐘の音がマッケイの布教の物語を伝え、貿易が近代淡水にもたらした繁栄を川べりのふ頭と船が物語る。丘の上の紅毛城が、その過去の記憶と同様、はるか遠くにたたずむ。小さな町のあちこちに歴史が折り重なり、淡水河の夕日を受けてきらきらとかがやいている。

1. 船
かつて淡水港には各種の船が出入りしていた。河口付近の大型汽船は、はるか外洋をめざす。ふ頭あたりの帆船は華南沿岸、あるいは淡水河上流へ向かう船だろうか。ポンポンと音を立てる小型蒸気船は台北の大稻埕と淡水を結ぶ客船である。

2. 灯台
 岸辺に突き出たまぶしい白光がきらめく灯台は、夜には船を港へと導く。18世紀末、淡水沙崙にはすでに住民が資金を出し合って作られた「望高楼」が置かれていた。19世紀後期には、外国商船の事故が多発したため、清政府により油車口岸に灯台が設置された。

3. ダグラス洋行
 2階建ての洋館と背の低い細長の建物は、その昔ダグラス洋行の職員宿舎と倉庫だったが、日本統治期には徴用され郵便局の単身者用宿舎になっていた。ダグラス洋行はかつて台湾の対外汽船貿易を独占していたが、20世紀初期に日本が政策的に配置した航路との競争に敗れ、台湾での業務は衰退していった。

4. 税関ふ頭
 川面に突き出ているのは税関ふ頭で、日本統治初期に作られた。細長い建物は倉庫である。清朝期に対外通商港となった淡水には税関が置かれて西洋船の貨物から関税を徴収し、日本統治期になってもその規模は拡大した。ふ頭付近には船をつなぐ柱や乗船口などが設けられていた。

5. 烽火段
 曲がりくねった通りは今日の淡水老街の末端で、古くは烽火段と呼ばれた。清朝期には水師の官兵会館があったところで、開港後には多くの洋行の商人たちがここに集まった。倉庫、ふ頭、事務所などが作られ、各種貨物の輸出入がおこなわれていた。

6. 紅毛城
 遠方の丘の上にそびえ、城壁もはっきり見える。となりの赤塀と建築は英国領事館であろう。いずれも、16世紀ヨーロッパ人と台湾の接触や、台湾の開港通商の歴史を体現するものであり、淡水にとって重要な文化財産となっている。

7. 礼拝堂の鐘楼
 淡水礼拝堂の時計塔が右側に屹立している。ここにえがかれているステンドグラスは今日にいたるまで変わっていない。時計塔から鐘の音がそこはかとなく聞こえ、町の空に響いているようだ。手前には、カナダ長老派教会の宣教師マッケイが開いた偕医館の屋根の煙突窓も見える。いずれの建物も馬偕街(マッケイ通り)に現存している。

8. 淡水郡役場
 黒いかわらと半切妻の日本式建築は淡水郡役場である。1920年に淡水郡が設置された後に建てられた。日本統治後期の淡水郡の公的行事の多くがここでおこなわれた。中華民国政府来台後に撤去され、現在は新北市警察局淡水分局の所在地となっている。



図3 :Photo Credit:淡水文化基金會

図4 :Photo Credit: 陳澄波さん

淡水(一)  1935年ごろ  キャンバス油彩 91×116.5㎝ 個人蔵

淡水公会堂からにぎやかな街を俯瞰している。古い建物の間で、電柱がまっすぐな道の両側に並び、近代化した街並みに整然とした秩序をもたらしている。一方で、高さのそろわない白色の壁が連なり、絶妙なリズムを生み出してもいる。日ざしが町に暖かなだいだい色を映し出し、宝石のような淡水河の濃い青色と響きあう。画中の淡水は魅惑的な夢の世界であり、優雅で稚趣に富んでいる。

1. 砂州
 淡水河の下流は浅く、また満潮時には海から逆流してくる。さらに中仏戦争の沈没船が港をふさぎ、河口の土砂の堆積は増える一方だった。そのおかげで、絵にあるような美しい砂州が生まれはしたが、港としての機能にはマイナスに作用し、淡水港は衰退していった。

2. 帆柱
 高々と立つ二本の柱は帆船の帆柱である。1898年の『台湾協会会報』によると、中国と台湾の間を行き来するジャンク船は、さまざまな色の檣頭旗という三角形の旗を帆柱の先に掲げて船籍を示していた。赤旗は広東の船の印であり、ここに停泊しているのは広東から来た帆船であることが分かる。

3. 人力車
 通りの先に車の屋根とタイヤが描かれているが、これは人力車であろう。台湾語では手車仔という。近代的な人力車が日本で開発されたのは1869年で、台湾にも移入され交通手段として広く利用された。1925年現在、淡水駅から紅毛城までの人力車の運賃はわずか25銭で、バスよりも割安だった。

4. 市区改正
 まっすぐ伸びる広い通りは1933年の区画整理によって完成したばかりだった。台湾総督府は、西洋の近代的な都市計画の考え方を取り入れて台湾各地で同様の工事を実施し、街並みの整備や道路の建設、下水道システムの改善をおこなった。

5. 電柱
 通りに沿って整然とならぶ電柱も近代化によってもたらされたものだった。台湾の大都市では日本統治初期に電力事業が勃興し、電柱が日常的な光景となっていった。陳澄波の作品における電柱は、近代の象徴であるとともに、キャンバス上に距離感を表現するための重要な要素としても機能していた。

6. 赤瓦と白壁
 三角形の壁面には石灰が塗られている。暖かい日ざしがふりそそぐ日には白壁はとりわけ美しい。もっとも、雨の多い淡水では、石灰は水が壁にしみこむのを防ぐ役割も果たしている。淡水で使われていた石灰の多くは、淡水の北にある灰窯仔という場所で産出されていた。かつて台湾には石灰を作る集落が数多くあり、今日でも同様の地名がその名残をとどめている。

7. 日本瓦
 黒色の屋根瓦は日本式の建物であろう。周囲の赤瓦とあざやかな対比をなしている。黒瓦の大量の需要にこたえるため、日本統治期に達磨窯(俗称で狗頭窯)が導入された。精製の過程で生じる黒煙の炭素が付着して黒くなったものである。

8. ペディメント
 左手の寄棟屋根は洋式の建物だろうが、正面に簡単なペディメントがほどこされている。この装飾は古代ギリシャに源を発するもので、台湾のバロック建築での広く採用された。複雑かつ華麗な線の彫刻がなされ、壮健な雰囲気をたたえている。



図3 : Photo Credit:淡水文化基金會

図4 :Photo Credit:http://taipics.com

淡水風景(淡水) 1935年 キャンバス油彩 91×117㎝ 国立台湾美術館蔵

上方に向かって伸びている小道は三層厝街である。往時の淡水では地形に沿って建物が建てられ、西洋式あるいは日本式の家屋が次々と現れたが、高さがばらばらで奔放なさまを呈するそれらの建築物は、幾層にも堆積する歴史の隠喩となっていた。小道を軸にして右側にそびえ立つ二軒の洋風建築と、左側に不規則に並ぶ閩南式建築が調和のとれた対比を生み出している。画中の小さな町が一つの世界を形成し、さまざまなものが折り重なりつつも均整を保っており、一見乱雑な空間にも落ち着きが感じられる。

1. みぞと石の小橋
 下水処理システムが完備していなかった時代には、道の湾曲に沿った溝が街中の排水をにない、雨水や家庭排水を淡水河へと流しこんでいた。小道には溝をまたぐ石の小橋がかけられ、人々の好奇心を誘いながら坂の町の神秘的な空間へと導いていた。

2. つきあげ窓
 かつて淡水の民家では、外に向かって木でつきあげる窓板が見られた。こうした窓は、採光のためにはあまり便利ではないものの、雨を防ぐのには適していた。湿気が高い淡水では、室内の風通しと風雨を防ぐことは同様に重要だったのである。つきあげ窓は天気に応じて自在に開け閉めできるものだった。

3. 点景人物
 手をつないだ父と娘が小道の奥から歩いてくる。親子の愛情を感じさせる点景人物は、陳澄波の作品には欠かせないものである。早くに両親を亡くした陳澄波のはるかな思いが、両親が子どもを三千世界へと導く姿を描かせていたのかもしれない。

4. 紅楼と白楼
 坂の町にそびえ立つ、雨縁とアーチを特色とする二軒の建物は紅楼と白楼である。いずれも往時の淡水のランドマークであり、多くの画家が創作の主題としてきた。陳澄波はここで典型的なアングルを採用しているが、同じような俯瞰の視点は倪蔣懷や陳慧坤らの作品にも見られる。

5. 鳥踏
 妻側にあるコの字を下向きにしたような出っ張りを鳥踏という。鳥踏などと言うと鳥が羽を休めるための場所のようにも聞こえるが、実は雨水が壁を伝って下の窓に流れてこないようにするための工夫である。鳥踏は時がたつにつれて装飾的な要素を強め、複雑かつ華麗な様式を備えるにいたった。



図3 : Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

図4 : Photo Credit:臺灣創價學會

淡水風景(二) 1935年 キャンバス油彩 72.5×91㎝ 個人蔵

山すそに立って仰ぎ見ると、直角に曲がった風変わりな建物が陳澄波の視線をさえぎっている。洋風建築の雨縁にはアーチが配され、周囲の土角厝の集落の中で白色の壁が目を引く。一見、場ちがいのようにも感じられるが、赤いかわらや壁のレンガはローカルな風格を強く主張するものとなっている。東西折衷の建築や風景はさながらこの町の歴史の縮図であり、この絵は、多様な文化が淡水で出会い、そして融合するさまを表現している。

1. 白楼
 マッケイの最初の学生だった厳清華の家で19世紀末に建てられた。彼は、当時淡水でもっとも知られた左官の洪仔泉に工事を依頼し、東西の要素が入りまじったこの奇抜な家屋を建てた。後年、持ち主がたびたび変わり1992年に改築された。今日では外壁部分の遺構が見られるのみである。

2. 木下静涯旧居
 東洋画家の木下静涯は1918年から台湾各地で作画を始めた。後に淡水の風景に耽溺した彼は、この視界の開けた小さな家を借りて創作に没頭し、画家として成功をおさめていった。台湾初の美術展覧会である台湾美術展覧会(台展)の創設にもかかわり、陳澄波などの芸術家の活躍の舞台を作った。

3. 庇
 屋根の下方に突き出ている庇(または霧除)は、木下静涯旧居のよく目立つ特徴であり、やはり多くの画家の作品に登場する。庇は日本建築によく見られるもので、風雨や日ざしをさえぎるほか、家屋の外観に変化をもたせてもいる。

4. 牛眼窓
 湿気の多い淡水では、土埆厝にせよ洋風建築にせよ、屋内の空気の通りをよくするために側面の妻側の上部に小窓をつけることが多い。白楼には円形の牛眼窓がついているが、日本統治期のバロック建築の建物には同様の窓がよく見られた。風通しや採光以外に、角々とした壁面を飾る役割も果たしている。

5. 門聯
 門聯は漢人社会の習慣で、玄関に文字を貼って福を呼ぼうとするものである。桃の木で作った厄よけである桃符が起源である。台湾総督府は台湾人が旧正月を祝うのをやめさせようとしていたが、伝統的な台湾の風習を一定程度黙認してもいた。ここに描かれている門聯もその一例である。

6. 番外
 若かりしころの陳澄波は、画壇の友人とよく各地へ出かけ作画をおこなっていた。この絵は画家楊三郎の1935年の作品「盛夏の淡水」で、台湾美術展覧会で入選している。陳澄波の絵とよく似ており、二人は同じ場所で写生をし、それぞれの作品を完成させたのかもしれない。



図3 :Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

図4 : Photo Credit:臺灣創價學會

岡 1936年 キャンバス油彩 91×116.5㎝ 個人蔵

風変わりな塔が遠くにそびえている。塔の下の丘陵には畑が広がり、うっそうとした緑がいっぱいに流れる。あぜや道、樹木の頭頂の横線が五線譜のように躍動し、田に降りたコサギや電柱も旋律に合わせ、水平の構図の中で飛び跳ねながら変奏を奏でている。あたかも大指揮者陳澄波が、手にした絵筆をキャンバスに軽快に躍らせ、田園風景を美しく軽やかな交響曲に仕立てあげているかのようである。

1. 淡水中学校
 丘の上の淡水中学校は現在の淡江高校で、北部台湾で初めて台湾人学生が就学した中学校である。著名な宣教師ジョージ・レスリー・マッケイの息子、ジョージ・ウィリアム・マッケイが1914年に設立した。そうした背景をもとに独特な教育がおこなわれ、台湾初のラグビーチームや合唱団が淡水中学校のキャンパスで誕生した。

2. 八角塔
 カナダ人宣教師ケネス・ドゥーイの設計になるものである。西洋式の塔の様式によりながらも、中国式の宝塔や三合院などの要素も大胆に取り入れている。淡水中学校が寄付を集めて新築した校舎で、1925年に完成した。奇抜な外観の八角塔は、後に淡水中学校の歴史的なシンボルとなった。

3. 衛塔
衛塔は中世ヨーロッパの城では主に防衛のために作られていたが、以後、近代建築にも取り入れられるようになった。端に置かれた衛塔は建物の輪郭に変化を添え、また建物の壮麗さを引き立てる。台湾でも、日本統治期のいくつかのバロック建築に衛塔が見られる。

4. 電信柱
 電信柱は陳澄波お気に入りの題材である。日本統治期の台湾画家は、近代化の波の中で急速に変わっていく風景をながめながら日々を送り、視覚上の衝撃はかれらの作品にも反映されていた。鉄橋や道路などモダンな情景は、往々にして風景画の主題や構成要素になった。

5. コサギと田畑
 畑のあぜのコサギが、先のとがった長く黒いくちばしで虫をついばんでいる。コサギは群れを好む留鳥で、台湾各地の畑地でよく見られる。さまざまな文芸作品にもコサギが登場し、郷土の表象あるいは作者の自然に対する思いに結びつくものとなっている。

6. 樹木
 羽毛のように開いた樹木の葉にはきらめく生命力がみなぎっている。陳澄波は台湾の風景を題材とする絵に、よく青々と茂る草木を描いた。後期の作品では、水墨画から会得した擦筆の技巧を樹木の描写に取り入れ、自然の植生の繁茂と喜びを表現している。

7. 点景人物:笠をかぶり天秤棒をかつぐ人
 笠をかぶり肩に天秤棒をかつぐ労働者も陳澄波作品によく登場する点景人物である。堅実かつ実直に献身する大衆が、かつてはあちこちを走り回っていた。濃厚な郷土に対する愛情を抱くこの画家の心には、かれらの姿が深く刻まれていた。

8. 道
 1945年に撮影された航空写真を参照してみるに、ここに描かれている畑の間の道は、今日の新生街ではないだろうか。陳澄波の淡水作品では、近くから遠くへ一本の道が描かれ、遠近法で距離感を出すことが多い。ただ、この絵では画面を切断するために道が使われており、他の多くとは異なる効果を生み出している。



図3 : Photo Credit:中央研究院淡水百年歷史地圖系統

図4 :Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

淡水河辺 1936年 キャンバス油彩 90×116.5㎝ 個人蔵

 黄色がかった油彩は過去の日々の色でもある。重厚な物語が古い町並みの迷宮の中に閉じこめられているかのようだ。ここに転がりこんだ歴史の旅人は、しばらくの間さまよい続けなければ帰りの道を見つけることができない。時間と記憶はすべて山すその異境の中に海のごとく折り重なり押し黙ったまま、ただ、かもめが川の流れをながめながら悠々と空を舞っているのみである。

淡水を主題とした陳澄波の一連の作品のうち、この絵は他作品とは異質である。たそがれた光線、人気のない集落、広々とした川の流れ、小山の枯れ木、それらのいずれもが強烈な孤独感をかもしだしている。

視線を遠方に向けると、紅楼のレンガはあいかわらずあざやかな赤色を放っているが、山のふもとには色を失った町が広がり、永遠に往時の光の中にとどまっているかのようである。古い家が秩序なくバラバラに並び、そこに放りこまれて左右もわからず呆然としているような錯覚に襲われる。

また遠近表現もたいへん興味深い。町の方向を望むと、近から遠への視覚の深さと他の事物の遠近比率が一致していないようである。視線が高低を移動し、奇妙なアンバランスさが見え隠れする。

風景画の空間配置にかんして陳澄波は独特な考え方を持っていた。彼の作品には多点透視がもたらす幻想的な効果が多用されており、この絵もさびしげな雰囲気を故意に作り出している。不明瞭さや不釣り合いも陳澄波の創意から発したものなのだろう。あなたはこの町で、陳澄波が描いたかつての淡水にすでに出会っただろうか。

たそがれた光線、人気のない集落、広々とした川の流れ、小山の上の枯れ木、それらのいずれもが強烈な孤独感をかもしだしている。

重厚な物語が古い町並みの迷宮の中に閉じこめられているかのようだ。ここに転がりこんだ歴史の旅人は、しばらくの間さまよい続けなければ帰りの道を見つけることができない。時間と記憶はすべて山すその異境の中に折り重なり、押し黙った海には、かもめが川の流れをながめながら悠々と空を舞っているのみである。



図2 : Photo Credit:日本旅行協會臺灣支部編,《臺灣鐵道旅行案內》(臺北:日本旅行協會臺灣支部,1940),頁164,〈詩と繪の淡水〉,中研院臺史所臺灣古籍研究資料庫。

図3 : Photo Credit:臺灣創價學會

満載帰港 1936年 キャンバス油彩 72.5×90.5㎝ 個人蔵

町の北側の高台から淡水を望む。通りの人々は向こうの赤瓦の集落に向かって歩いている。街並みの向こうの港には煙を吐く汽船が停泊しており、商港の雰囲気が若干感じられる。鼻仔頭の向こう側の淡水河はリボンのようで、上方には小坪頂山の全景がおさめられている。淡水の町はずれの風景に注目した画家は他にはあまりみあたらないが、こうしたアングルは、淡水を熟知する陳澄波ならではのものと言えよう。

1. 通りの人々
 夜が明けようとしている。城仔口の北に住み、朝早くに買い物に出かける人々や天秤棒をかついだ商売人が、まだ眠りさめやらぬ町へと歩いていく。電柱に導かれ、人の群れとともに歩を進めながら、あなたは町の中の光景を思い浮かべることができるだろうか。

2. 施合発商行の木材
 福州あるいは北海道から運ばれてきた杉が岸辺に並べられ、施合発商行の製材所で加工されるのを待っている。施合発は1930年代、台湾最大の材木業者だった。その製材所は海運、川運、鉄道が交差する淡水駅(現MRT淡水駅)のかたわらにあったため、運輸コストをおさえることができた。

3. カス洋行倉庫
 岸辺にある背の低いレンガ造りの建物は19世紀末にできたカス洋行倉庫である。日本統治期にはシェル石油の貯蔵および中継の拠点となり、輸入された石油がここで仕分けられ台湾各地へと送られた。鼻をつく石油のにおいから臭油桟と称されていたこのあたりは、第二次世界大戦時に空爆を受け大火事になった。

4. 桟橋と汽船
 シェル倉庫右の木造の桟橋に汽船が着いている。桟橋上の忙しそうな人影は、岸の大型石油タンクから船に給油をおこなっているのだろうか。淡水を最後にタンカーが出港したのは1941年だったが、それ以前はまだ堆積物が航路を完全にふさぐには至っておらず、描かれているような3000トン以上の大型汽船の出入りも可能だった。

5. 黄東茂邸宅
 黄東茂(五舎)の洋風の邸宅が鼻仔頭に遠慮がちに浮かび上がっている。厦門からやってきた彼は石油会社の代理業をいとなみ、後にはレンガ工場、炭鉱、鉄道などの事業にも投資して巨大な富を築いた。1939年に水上飛行場の建設にともなって撤去されるまで、淡水の人々は遠くからこの神秘的な邸宅をながめていた。

6. 小坪頂山
 上方に横たわっているなだらかな山は小坪頂山で、圓仔湯嶺とも呼ばれる。台北と淡水を結ぶ道路や鉄道が開通する以前は、小坪頂を越えて北投へ抜ける古道が台北への主要ルートだった。



図3 : Photo Credit:淡水文化基金會

図4 :Photo Credit:U.S. Department of Navy, Office of the Chief of Naval Operations, Civil Affairs Handbook - Taiwan (Formosa), Taihoku Province, 1944, p.61.

淡水風景(三) 年代不詳 キャンバス油彩 35.7×42.6㎝ 個人蔵

大自然をアトリエとしていた陳澄波は、淡水の郊外にも美しい山水画の世界を見出していたのだろう。小舟に乗る漁師は帆柱にもたれかかってうとうとし、カモの群れが水面に遊んでいる。対岸には広い田野が広がり、遠く大屯山の下にまでおよんでいる。開けた視野の中に農民が黙々と働いている姿がぼんやりと浮かび、山河の間を時がおだやかに流れている。川べりで釣り糸をたれている父子は、その静けさの中をさまよっているのだろうか。

1. 庄子内渓
 淡水河水系に属する庄子内渓が眼前を流れている。川が運んだ土砂が堆積して肥沃な土地を生み出し、早くからこの流れに沿って多くの集落が形成された。淡水の都市化にともない、近年では庄子内渓の下流はコンクリートジャングルの奥深くに埋没し、汚れよどんだ街の暗渠になってしまっている。

2. 養鴨
顔の赤い鴨が群れを成して水面に遊んでいる。南アメリカ原産のバリケンは17世紀に台湾に導入され、多くの農家の養殖するところとなった。田の害虫を食べ、大きな卵を産み、丸々と太った肉は栄養豊富である。養鴨農家がかつての台湾農村の代表的な風景だったこともうなずける。

3. 鴨母船
鴨の群れのそばに見られるサンパンは鴨母船であろうか。淡水河水系では、小舟で浅瀬まで鴨を運んで行ってえさを食ませ、また船に載せて連れ帰るという養鴨がさかんにおこなわれていた。鴨の放し飼いは台湾独特の光景であり、1923年に裕仁皇太子が台湾を訪れた際にも、とくに基隆河畔におもむき、養鴨の様子を参観した。

4. 小漁船
 泊まっている小舟には竹で作った半円形の背の低いおおいがかかっている。漁民が日や風を避けて休息するための空間である。へさきには小さな帆柱があるが、風がないときでも櫂を使って移動することができる。

5. 没骨法
 近景の三本の大木は中国水墨画の没骨法に似た技法でえがかれている。すなわち、輪郭線を書かず、木の動態を直接、面で表現している。1930年代中期、陳澄波は作品の中に意識的に倪瓚や八大山人など中国の画家の技法を取り入れた。この作品もどこか山水画の雰囲気をそなえているように見える。

6. 魚釣り
 中国の山水画には釣り糸を垂れる人物がよくえがかれるが、陳澄波もこの作品にそれを取り入れたのかもしれない。実際、日本統治期の淡水は広く知られた釣りのメッカであり、休日になると海岸や河辺に遠くから多くの釣り客が訪れていた。

7. 大屯山系
 遠くに連綿と連なるのは大屯山系であろう。土埆厝と呼ばれる土壁の家の集落が山すそに広がっているようである。日本統治期後期に台湾に住んだ文学者の西川満は、淡水の背後にある大屯山系の山々の力強さと対岸の観音山の柔和さはきわめて対照的だと指摘している。この絵の描写からも山々の勇壮さを感じとることができる。



図3 : Photo Credit:http://taipics.com

図4 : Photo Credit:臺灣總督府編,《共進會記念臺灣寫真帖》(臺北:臺灣日日新報社,1916),無頁碼,〈淡水河の家鴨放飼〉,中研院臺史所臺灣研究古籍資料庫。

雨後の淡水 年代不詳 キャンバス油彩 45.5×53㎝ 個人蔵

太平洋上の戦雲は深く、雨後の淡水にも戦争の暗さがおおいかぶさっているようである。出征旗の「祝」の文字はあざやかであるが、集まった人々は寂しげで祝賀の雰囲気は感じられない。九崁街を上がったあたりは淡水の古い町並みであるが、故郷との別れの儀式にはふさわしい場所なのかもしれない。人々の列が去っていくのを見送りながら、陳澄波は黙々と時代の陰影をふちどり、歴史の証言者となっている。

1. 壮行会
第二次世界大戦期、召集あるいは志願により入隊した軍人が遠く戦場へおもむく際、地方の行政単位は、住民や学生、各種団体を動員して「壮行会」をもよおした。作品中の行列の人々は国旗を手に九崁街を歩き、名誉の出征をする戦士を送っている。

2. 出征旗
 出征を名誉なものとして印象づけるべく、儀式の際にはこの絵にあるような大きな旗を立てた。旗には日本の国旗の日の丸、もしくは日本軍のシンボルである旭日模様がえがかれ、出征者の名前が大書きされていた。かかげられた出征旗は、兵士の武運昌隆を願うものであるとともに、人々を戦争へかりたてるための手段でもあった。

3. 九崁街
 福佑宮後方の九崁街は18世紀末に形成された商店街である。河岸はスペースが限られているため、淡水の人口が増加するにつれて九崁街から坂の上の崎仔頂へと居住空間が伸びていき、集落の規模を拡大させていった。

4. レンガアーチ
 九崁街のある民家は、丘の多い淡水の地形に合わせてレンガアーチを階段の基礎とし、上部の建物の出入り口につなげている。絵の中でよく目立つ二つのアーチは今日でも九崁街に残っている。絵と実際とでは方向は違うが、様式はおおよそ一致する。

5. 福佑宮
 棟の両端が反りあがった燕尾は台湾の寺廟建築によく見られるものである。九崁街との位置関係から判断すれば、この建物は淡水河畔の福佑宮であろう。媽祖をまつる福佑宮は1782年に建立されたもので、早期に福建や広東東部から淡水にやってきた移民の信仰の中心だった。

6. 店舗
 淡水の街中の店舗は細長い作りになっているものが多い。店が通りに面し、屋根裏が倉庫、後ろが店主の住居となっている。鹿港や安平といった台湾の港町の集落では、こうした形の店舗がよく見られる。



図3 : Photo Credit:臺灣總督府民政部編,《記念臺灣寫真帖》(臺北市:臺灣總督府民政部,1915),無頁碼,〈淡水市街〉,中研院臺史所臺灣研究古籍資料庫。

図4 : 陳澄波「鹿港老街」(1933年)。両側にはやはり細長い作りの建物が並んでいる。

淡水写生合画 1941年 紙彩墨 27.2×24.2㎝ 個人蔵

山のふもとの家屋、小さな帆船、鳥は陳澄波、
山は楊佐三郎、
左側の木は李梅樹、
大きな帆船は林玉山、
手前の道は郭雪湖、
水面の波は陳敬輝の筆によるものである。



図3 : Photo Credit:臺灣國立公園協會編,岡田紅陽撮影,《臺湾囯立公園寫真集》(1939),〈淡水河と觀音山〉,中研院臺史所臺灣研究古籍資料庫。

図4 :Photo Credit:http://taipics.com

岡 1936年 キャンバス油彩 91×116.5㎝ 個人蔵

風変わりな塔が遠くにそびえている。塔の下の丘陵には畑が広がり、うっそうとした緑がいっぱいに流れる。あぜや道、樹木の頭頂の横線が五線譜のように躍動し、田に降りたコサギや電柱も旋律に合わせ、水平の構図の中で飛び跳ねながら変奏を奏でている。あたかも大指揮者陳澄波が、手にした絵筆をキャンバスに軽快に躍らせ、田園風景を美しく軽やかな交響曲に仕立てあげているかのようである。

1. 淡水中学校
 丘の上の淡水中学校は現在の淡江高校で、北部台湾で初めて台湾人学生が就学した中学校である。著名な宣教師ジョージ・レスリー・マッケイの息子、ジョージ・ウィリアム・マッケイが1914年に設立した。そうした背景をもとに独特な教育がおこなわれ、台湾初のラグビーチームや合唱団が淡水中学校のキャンパスで誕生した。

2. 八角塔
 カナダ人宣教師ケネス・ドゥーイの設計になるものである。西洋式の塔の様式によりながらも、中国式の宝塔や三合院などの要素も大胆に取り入れている。淡水中学校が寄付を集めて新築した校舎で、1925年に完成した。奇抜な外観の八角塔は、後に淡水中学校の歴史的なシンボルとなった。

3. 衛塔
衛塔は中世ヨーロッパの城では主に防衛のために作られていたが、以後、近代建築にも取り入れられるようになった。端に置かれた衛塔は建物の輪郭に変化を添え、また建物の壮麗さを引き立てる。台湾でも、日本統治期のいくつかのバロック建築に衛塔が見られる。

4. 電信柱
 電信柱は陳澄波お気に入りの題材である。日本統治期の台湾画家は、近代化の波の中で急速に変わっていく風景をながめながら日々を送り、視覚上の衝撃はかれらの作品にも反映されていた。鉄橋や道路などモダンな情景は、往々にして風景画の主題や構成要素になった。

5. コサギと田畑
 畑のあぜのコサギが、先のとがった長く黒いくちばしで虫をついばんでいる。コサギは群れを好む留鳥で、台湾各地の畑地でよく見られる。さまざまな文芸作品にもコサギが登場し、郷土の表象あるいは作者の自然に対する思いに結びつくものとなっている。

6. 樹木
 羽毛のように開いた樹木の葉にはきらめく生命力がみなぎっている。陳澄波は台湾の風景を題材とする絵に、よく青々と茂る草木を描いた。後期の作品では、水墨画から会得した擦筆の技巧を樹木の描写に取り入れ、自然の植生の繁茂と喜びを表現している。

7. 点景人物:笠をかぶり天秤棒をかつぐ人
 笠をかぶり肩に天秤棒をかつぐ労働者も陳澄波作品によく登場する点景人物である。堅実かつ実直に献身する大衆が、かつてはあちこちを走り回っていた。濃厚な郷土に対する愛情を抱くこの画家の心には、かれらの姿が深く刻まれていた。

8. 道
 1945年に撮影された航空写真を参照してみるに、ここに描かれている畑の間の道は、今日の新生街ではないだろうか。陳澄波の淡水作品では、近くから遠くへ一本の道が描かれ、遠近法で距離感を出すことが多い。ただ、この絵では画面を切断するために道が使われており、他の多くとは異なる効果を生み出している。



図3 : Photo Credit:中央研究院淡水百年歷史地圖系統

図4 :Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

淡水風景(淡水) 1935年 キャンバス油彩 91×117㎝ 国立台湾美術館蔵

上方に向かって伸びている小道は三層厝街である。往時の淡水では地形に沿って建物が建てられ、西洋式あるいは日本式の家屋が次々と現れたが、高さがばらばらで奔放なさまを呈するそれらの建築物は、幾層にも堆積する歴史の隠喩となっていた。小道を軸にして右側にそびえ立つ二軒の洋風建築と、左側に不規則に並ぶ閩南式建築が調和のとれた対比を生み出している。画中の小さな町が一つの世界を形成し、さまざまなものが折り重なりつつも均整を保っており、一見乱雑な空間にも落ち着きが感じられる。

1. みぞと石の小橋
 下水処理システムが完備していなかった時代には、道の湾曲に沿った溝が街中の排水をにない、雨水や家庭排水を淡水河へと流しこんでいた。小道には溝をまたぐ石の小橋がかけられ、人々の好奇心を誘いながら坂の町の神秘的な空間へと導いていた。

2. つきあげ窓
 かつて淡水の民家では、外に向かって木でつきあげる窓板が見られた。こうした窓は、採光のためにはあまり便利ではないものの、雨を防ぐのには適していた。湿気が高い淡水では、室内の風通しと風雨を防ぐことは同様に重要だったのである。つきあげ窓は天気に応じて自在に開け閉めできるものだった。

3. 点景人物
 手をつないだ父と娘が小道の奥から歩いてくる。親子の愛情を感じさせる点景人物は、陳澄波の作品には欠かせないものである。早くに両親を亡くした陳澄波のはるかな思いが、両親が子どもを三千世界へと導く姿を描かせていたのかもしれない。

4. 紅楼と白楼
 坂の町にそびえ立つ、雨縁とアーチを特色とする二軒の建物は紅楼と白楼である。いずれも往時の淡水のランドマークであり、多くの画家が創作の主題としてきた。陳澄波はここで典型的なアングルを採用しているが、同じような俯瞰の視点は倪蔣懷や陳慧坤らの作品にも見られる。

5. 鳥踏
 妻側にあるコの字を下向きにしたような出っ張りを鳥踏という。鳥踏などと言うと鳥が羽を休めるための場所のようにも聞こえるが、実は雨水が壁を伝って下の窓に流れてこないようにするための工夫である。鳥踏は時がたつにつれて装飾的な要素を強め、複雑かつ華麗な様式を備えるにいたった。



図3 : Photo Credit:蘇文魁老師(淡江中學校史館館長)

図4 : Photo Credit:臺灣創價學會

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