山林を望む屋外美術エリア

山林を望む屋外美術エリア

《山林を望む屋外美術エリア》では、台湾美術界の巨匠陳澄波(1895-1947)が描いた嘉義県のイメージをデジタル化した画作18点を展示し、「嘉義」と「山林」─二大テーマからなる嘉義の特色をご覧いただきます。こちらの展示は「カルチュアルアクセシビリティ」を理念とし、この場所を訪れた皆さまに、陳澄波の芸術作品に親しんでいただき、画家が描いた絵画の世界とその身を置いた時代に歩を進めつつ、当時の木材産業の状況や嘉義の近代化、都市の発展をともに確かめながら、嘉義の庶民の暮らしや宗教活動など、多元的な文化を体験していただきます

この絵の中の陳澄波は自信に満ちています。夏に咲くブッソウゲも背後で鮮やかな色彩を放っています。自己表現について、35歳になった陳澄波は油彩画の世界のなかに一種の理想的な方法を見い出したのです。
日本から上海へ渡った陳澄波は、その芸術人生において新たな段階へと歩を進めました。上海で中国の伝統絵画の概念や技法を吸収する一方で、それまでとは異なる題材(風景)を見つけたのです。この自画像は自分の将来に対する確信や期待をも表現しているのかもしれません。

1. 自画像
自画像は西洋画では大切な伝統の一つです。一般に画家はこのような作品を通して、画家自身の個性や生きる姿勢を表現します。19世紀末、東京美術学校ではヨーロッパへ留学した洋画家たちにより、自画像制作の気運が高まりました。同校を卒業した台湾出身の画家たちの多くも自画像を残しています。

2. まなざし
1927年に完成したもう1点の自画像に比べると、この作品の陳澄波の表情はより朗らかで、まなざしも明るく澄んだものへと変化しています。これは上海滞在期間中に、芸術において新たな着想や方向性を見い出したからかもしれません。右方向を睨んでいる陳澄波は、落ち着き払ったまなざしで何を見つめているのでしょうか。

3. オーバーコートと毛糸の帽子
白い毛皮の衿付きのオーバーコートに濃い色のニット帽という装いから、上海滞在中の冬に描かれた絵だとわかります。1931年に撮影された、陳澄波と家族の写真でも厚手のコートを着て、みな暖かそうな毛糸の帽子をかぶっています。この自画像に描かれているのもこのような帽子なのかもしれません。

4. ブッソウゲ
冬物の厚手のオーバーを身にまといながら、陳澄波は意図的に南国の風情漂うブッソウゲの花を背景に描き入れています。溌剌とした感のある自画像に合わせたか、自身の出身や来歴を伝えようとしたのかもしれません。現存する自画像2点はいずれも背景に熱帯をイメージさせる図案が描き込まれてあり、味わい深いものがあります。

5. 絵葉書のコレクション
ゴッホやセザンヌなどの後期印象派を代表する画家は、陳澄波の画風に大きな影響を与えました。自画像も、この二人を参考にしたかもしれません。陳澄波が収蔵していた絵葉書の中にセザンヌの自画像が1枚ありました。その表情をよく見ると、陳澄波の作品によく似ていると思われませんか。

6. 分厚い唇
自身の赤みがかった分厚い唇に気づいた陳澄波は、この自画像で鮮明な色をもってその特徴を描き出しています。陳澄波の友人であり、画家でもある寥継春が描いた自画像も自分の赤く厚みのある唇を意図的に強調しています。この二人の画家たちは鏡に向かいながら、自分の唇をじっくりと観察したのかもしれません。

図3 : 1928年の自画像に描かれた陳澄波は陰鬱な表情を浮かべており、色彩も全体に暗く沈んだ表現となっている。
自画像(1),1928,画布油彩

図4 :寥継春,『自画像』,1926,木板 油彩,32x24cm

初秋
1942, 画布油彩, 91×116.5cm

街角の風景に交錯する何本もの線―廟宇の屋根に反り返る燕尾脊、日本式木造家屋の山型の屋根、西洋風の小さな家。多種多様な建築物によって、リズミカルで美しい画面が構成されています。力強く伸びる広葉樹の枝、緑陰に包まれた風景、初秋を迎えた南国の、衰えることなく旺盛な自然の生命力が表現されています。木製の竿に干された洗濯物、手すりの外に広がる小さな世界に目をやれば、皆さんものんびりと安らいだ気持ちになりませんか。

1. 作画地点
陳澄波の子孫の記憶によれば、この作品は蘭井街旧居のベランダから南の方を見て描かれた作品です。左側に見える宝塔と屋根の棟は温陵媽祖廟の裏手で、右側の樹木は裏の路地に植えられた龍眼の木でしょう。時の流れとともに陳澄波旧居の外観も大きく変化し、この絵に見える手すり付きのベランダはもうありません。

2. 2枚のデッサン
陳澄波が残したデッサンノートの中に、この油彩画と関係のあるスケッチが2枚あります。そのうちの1枚は子供を抱いた陳夫人がベランダの手すりから外を眺めている様子で、もう1枚は『初秋』の草稿です。このデッサンと油彩画を丹念に比較してみると、最終的に完成した作品は細部の空間配置に何度も変更があったことがわかります。

3. 画作の題名
日本統治時代に政府が主催した美術展では、「初秋」はありふれた題名でした。例えば、李沢藩や寥継春、楊三郎などの画家も、初秋のころの風景画で入選を果たしています。これらの作品を見比べてみましょう。画家たちが表現しようとした「初秋」に共通点や相違点はあるでしょうか。

4. 龍形の剪黏
「剪黏」とは、中国南部特有の民間工芸です。台湾に伝わってからは、寺廟の屋根や「牆堵」(寺廟の壁面)の装飾技法として用いられました。剪黏は、切った磁器片を漆喰の表面に貼り付けて、いろいろな模様や形を作ります。この作品中、陳澄波は意図的に龍形の剪黏を背景の緑陰に溶け込ませています。どこに剪黏があるか、おわかりになりますか。

5. 双龍拝塔と双龍搶珠
台湾の廟宇を飾る剪黏には多種類の主題があり、その形も様々です。この絵に見える「双龍拝塔」と「双龍護珠」は、棟の端によくある厄除けの装飾です。「七宝塔」と「摩尼珠」は仏教由来の概念で、青龍は寺廟の守護だけでなく、雨を降らせることもでき、寺廟を火災から守ります。

6. 和風建築
日本統治時代、「内地」からの移民が台湾に定住するにつれ、たくさんの和風建築物が台湾各地に建てられました。画中の建物の側面を見ると、屋根の棟には鬼瓦、破風の上部には通風用の窓があり、外壁は下見板張りになっています。この家のような古い和風住宅は、現在も嘉義市内で見られます。

7. 樹木と構図
画面の片側に配置された大樹の枝葉が傘のように空を覆っています。この描き方は陳澄波の風景画にしばしば登場します。画面の端に向かって伸びる木陰が、「初秋」の自然環境と、この地の植物の生態を表しています。視覚効果の面では、前景をこのように配置すると画面全体の奥行きを増すことができます。

図3 :楊佐三郎,『初秋の湖畔』,1940,第3回府展。

図4 : 人物のスケッチ(172)-SB30(40.10-41.7) 1940-1941頃 紙、鉛筆 36.5×26.3cm

道路へと続く水路、道端で目を引く廟の燕尾脊。眼前に広がるのは、陳澄波がかつて絵画作品を通して日本に紹介した故郷の情景です。この作品より前に帝展入選を果たした傑作に比べると、この絵では近代化が更に進んで、整然とした秩序が形作られているように見えます。遠くに嘉義市街地を眺めやりながら、再び似たような風景画を完成させた陳澄波は、この町の変化を記録として描き留めたかったのかもしれません。

1. 4枚の『嘉義の町はづれ』
この作品を描いた場所は1926年に帝展初入選を果たした作品と同じですが、視点が少しばかり後ろに移動しています。今のところ、同じ視点・同じ道の風景を陳澄波は少なくとも4枚描いていることがわかっています。何度も繰り返し描いたのは、画家にとってこの道の風景が、何か特別な意味を持っていたからでしょう。

2. 市街地と原野の境目
真っ直ぐに伸びる道と水路、電柱を見れば、この道が近代的に整備された都市空間の一部であることがわかります。しかし、1920年代末期、この絵を描いた場所は拡張されていく町の周辺地域、町外れに位置していました。陳澄波が表現しようとした主題も、自然と文明が交わる境界線上にある風景だったのかもしれません。

3. 道路の風景画
明治時代の日本画壇では、道路を主体とした一点透視の構図が大いに流行しました。陳澄波が啓蒙された絵画の師・石川欽一郎もこのような手法を巧みに用いていました。道を軸線として観る者の視線を画面の奥へと導き、その助けとして道沿いにその場所の特色ある風景が描かれています。

4. 陳澄波旧居
媽祖廟の裏手からそれほど遠くない「西門町2丁目125番地」に陳澄波の旧居があります。しかし、この絵を描いた頃、陳澄波の自宅はすぐ近くの「西門外街739番地」にありました。陳澄波が残したハガキを見ると、1933年以降、転居のために宛先が変わっています。

5. 温陵媽祖廟
廟宇の屋根の上に反り返る燕尾が、この絵の中で最も台湾らしい景物の一つでしょう。自宅近くの温陵媽祖廟は、ここで生まれ育った陳澄波にとって大切な場所だったに違いありません。1906年の大地震で一度は倒壊したこの廟は、1923年に修築工事を終え、生まれ変わった姿で陳澄波の作品に登場したのです。

6. 用水路
遠景の道路は今日の国華街です。近景の水路は、現在は地下に埋設されています。古い地図と対照すると、この真っ直ぐな水路は「道将圳」の支流と思われます。1920年代に老朽化した道将圳は近代的に整備され、この絵にあるように直線的な水路に変わりましたが、それまでと同様に近隣市街の田畑に農業用水を供給していました。

7. 台湾銀行職員宿舎
水路右側の塀内にある建物は、1910年以降に建設された台銀宿舎でしょう。日本統治時代、台湾銀行職員のために建てられた日本風の宿舎が台湾各地にありました。現在、各地の台銀宿舎の多くは古跡に指定されていますが、嘉義の台銀宿舎群は保存されることなく、十数年前に市政府により更地となりました。

図3 : この陳澄波の作品(1927年制作)には、修築後の温陵媽祖廟が主役として描かれており、外観の装飾が細部まで丁寧に描写されている。
温陵媽祖廟,1927,画布油彩,91×116.5cm

図4 :1931年の『嘉義市街実測図』を見ると、「西門町二丁目125番地」にあった陳澄波旧居の位置がおおよそ把握できる。そこから南に向かうと、廟宇の地図記号が示す温陵媽祖廟を過ぎ、整備されてはいるが、地下に埋設される前の水路を通り過ぎる。
嘉義市街実測図(1931),中研院GISセンター「台湾百年歴史地図」より。

玉山の積雪
1947, 木板油彩, 23.5×33cm

赤褐色の地面、樹木の緑が鬱蒼として色濃い山々、山脈を覆い尽くす白銀の雪、静けさを湛えて淀む濃紺の空。深遠さと荘厳さを備えた気韻が、重厚な油彩の一層一層に沈殿し、うず高く積み重なって、画家が感じた自然界への礼賛と崇敬の念となって現れています。
変化に富んだ色彩が、ごくシンプルなタッチのなかに包みこまれています。この作品で陳澄波が訴えたかったのは、長々とした物語ではありません。それは言葉を凝縮した一首の詩です。その詩句に詠われた聳える玉山は、清らかな光をまとい、この島の気高い精神の化身となって、全てを見守っているかのようです。

1. 遺作
1947年3月25日、陳澄波は政府による虐殺事件で命を落とします。『玉山の積雪』はそれより少し前に描かれた作品で、同じ日に被害に遭った義兄弟・柯麟氏に贈られたものでした。これが陳氏の遺作であることに気づいた陳澄波夫人(張捷女史)は、柯麟氏の遺族に頼んで別の作品と交換してもらい、家に持ち帰って保管しました。

2. 陳澄波と玉山
陳澄波の芸術人生において、玉山は重要な題材でした。この小さな木板に描かれた油彩画は、陳澄波による玉山の代表作です。登山を好んだこの画家は、嘉義の市街地から郊外まで異なる角度で繰り返し玉山に向き合い、そこで生まれた台湾の山々への熱烈な愛情を、油彩の世界に放出したのです。

3. 玉山の積雪
300年以上前に『諸羅県志』を編纂した清代の文人・陳夢林は、嘉義から見た冬の玉山の感動を「望玉山記」に記しています。陳夢林は山頂の雪景色を形容して、空中に飛び散る瀑布、または絹の反物を敷き広げたようだと述べています。皆さんの印象のなかで玉山に積もった雪は何を思わせるでしょうか。

4. 眺める山から楽しめる山へ
日本による台湾統治が始まると、標高3952mの玉山は日本国内最高峰の「新高山」(ニイタカヤマ)となり、台湾を代表する風景とされました。20世紀初頭に始まった山林資源の開発や、登山活動が盛んになるにしたがって、玉山も様々な文学作品や美術作品に登場する機会が増え、多くの人に知られるようになりました。

5. 昔日の大武巒山
中景の緑色をした低い山々は、嘉義から玉山を望んだ際、一層目に見える山並みです。現在は、中ほどの山を鳩州嶺、右側の山を烏心石山といいます。清代の文献では、これらの山々を総称して「大武巒山」と呼び、諸羅県城の「主山」とみなされ、それらを守護する「後楯」がつまり、高々と聳え立つ玉山でした。

6. 作画地点
手前の大武巒山中央にある頂きと後ろの玉山主峰、大武巒山右側の頂きと玉山南峰が、それぞれ垂直に重なっています。これは、現在の嘉義市呉鳳北路以東の中山路から東を遠望すれば得られる眺めです。言い換えれば、おそらく陳澄波は画材を手にして、住居の東北に位置する嘉義市役所付近まで歩いて行き、この絵を完成させたのでしょう。

図3 :

図4 :

チューブからたっぷりと絞りだした絵の具をこすり付けるようなタッチで生い茂る樹木が描かれ、雑草に覆われた斜面に景物を添えています。前景の到るところで線が躍動し、生気あふれる画面となっています。しかし、頭を上げて遠方に目をやると、平塗りされた遠景の中に、玉山が堂々と聳え、空中で獲物を狩るオオタカが見えます。山頂を覆う真っ白な雪が、幽遠な雰囲気をかもし出しています。
嘉義郊外から遠望する玉山(新高山/ニイタカヤマ)の頂き-陳澄波はこの2点にまたがる風景のイメージを丹念に吟味し、遙かに広がる眼前の景色を一枚の精緻な小品にまとめました。

1. 傘をさす人物
シンプルなタッチと線で構成されたものが何を表すのか、パッと見ただけではよくわからないかもしれません。しかし、陳澄波の作品に馴染みのある方ならば、陳澄波の風景画によく登場する人物を自然に連想するでしょう。これは日傘をさしている女性です。日傘で陽射しを和らげる様子が、近代の文明的な暮らしを表す一コマであるのと同時に、南国らしい雰囲気をも添えています。

2. 電柱と阿里山
若草色の原っぱに木製の電柱が何本も設置されています。そのうちの1本は大きく斜めに傾いて画面中央にあり、かなり目を引きます。日本統治時代、政府は日本から柳杉を持ち込み、この作品の背景に見える阿里山に造林しました。真っ直ぐに高く伸びる柳杉はその後、多くの電柱の材料として使われました。

3. 郊野
1926年に帝展入選を果たした『嘉義の町はづれ』という作品は、街と郊外との境にある風景を主題としています。この作品の創作アイデアはおそらくそれを模倣したものでしょう。絵の中で、電柱とコンクリート塀が自然の風景の中に建てられており、現代文明の力が都市の周囲にまで拡大していることを示しています。

4. 玉山
現存している陳澄波の作品の中では、純白の雪に覆われた玉山の全貌を描き出した作品として、最も早い時期のものと思われます。街中から遥かにのぞむ玉山山脈に美しく降り積もる雪は、嘉義の人々に共通する原風景です。それは、陳澄波が故郷の風景を紹介したこの作品のなかでも、突出した視覚イメージとして表れ出ています。

5. 欧陽文
この早期の油彩画は、もともとは教え子の芸術家・欧陽文に贈られたものだそうです。1950年、欧陽文氏は白色テロの最中に無実の罪で投獄され、この絵も軍に持ち去られたのち、街角に捨てられていました。幸いにも欧陽夫人(林翠霞女史)が拾って持ち帰り、大切に保管したため、現在まで無事に残りました。

6. 厚塗り
絵の具を分厚く塗り重ねて樹木や人物、電柱を描いたことにより、近景の事物はどれも立体的に見えます。この「厚塗り法」は、陳澄波が憧憬してやまなかったゴッホを連想させます。リズミカルな筆づかいやくるくると転がってゆく線が鮮明にあらわれ、二人の作品の多くに同じ技法が使われていることが見て取れます。

玉山の初冬
1934, 画布油彩, 38×45cm

山脈を覆う真っ白な雪が冬の訪れを示していますが、画中の嘉義は暖かい陽光に包まれています。日の光が壁に長い影を作り、絵の中に安らかでのどかな雰囲気が満ちています。温もりのある空気のうちに、人々の顔も赤く染められているようです。
陳澄波がキャンバスに描いた故郷の嘉義という土地、その多くに暖かさが感じられます。皆さんの故郷はどんな色でどんなイメージでしょうか。

1.電柱と陳澄波
1913年に「嘉義電灯会社」が設立されると、それに合わせて発電設備も整えられ、電柱も街角でよく見かけるようになりました。その年、陳澄波は進学のために北部へ向かいました。嘉義に帰郷した陳澄波は、すっかり様変わりした故郷の風景をみて驚いたに違いありません。その時の強烈な印象が、画中に電柱を好んで描き入れた理由なのかもしれません。

2.玉山と嘉義
1935年、陳澄波は「嘉義市と芸術」と題された文章で、玉山が嘉義の人々に与えてくれる喜びと励ましに熱のこもった称賛を送っています。「明け方は新高山(ニイタカヤマ、玉山のこと)の主山がいつもお天道様といっしょに笑顔を見せてくれる。誠に美しい山峰で、毎日この山が見られる嘉義市民はなんと幸せなことだろうか!」

3.積雪の色
玉山では毎年11月~12月頃に雪が降り始めます。積雪期間は3~4ヶ月ほどで、積雪量の増減により、山頂の姿も変化し続けます。陳澄波が描く風景画も、季節によって玉山の色彩表現に違いが見られるかもしれません。

4.陰影と時間
絵図の細部を手がかりに、一つの作品の時空的背景がつかめます。この作品に描かれている塀や人物、樹木が作る影はいずれも左下に伸びています。太陽の位置は画中の場面の右後方に違いなく、嘉義東部の山間部にあたります。この点から、陳澄波がこの作品を描いたのは午前中だと考えられます。

5.サイン
陳澄波のサインは時期によってかなりの違いが見られます。この作品には漢字でサインしていますが、早期の作品だと、姓名の日本語または台湾語の発音がピンインで記されていることもあり、「CTH」(日本語発音のイニシャル)という3文字を重ねた、オリジナルの図案をサイン代わりにした作品もあります。

6.画幅
陳澄波は1935年の初め、新聞紙上で批判的な文章を発表したことがあります。当時の台湾人画家は意図的に日本画壇の模倣をし、美術展で競うように大型の作品を制作しているが、結果は往々にして破綻しているという内容でした。陳澄波からすれば、技巧や個性を十分に表現できさえすれば、たとえこのような小品でも、理想的な作品になりえるという事だったのでしょう。

図3 :

図4 :

嘉義の郊外
1935, 画布油彩, 49×64cm

のどかな田舎らしい雰囲気の画面に、景物が細々と描き込まれています。1枚の絵に語り尽くせない物語があるかのようです。庭にいる女性の後姿が、作品全体の焦点です。鶏の群れや子供、物干し竿が取り囲まれて、黙々と働かねばならない女性の辛さを暗示しています。古めかしい農家の裏手にあるのは近代的な牧場です。三角形の屋根が遠くの山々に連なり、よどみない起伏のある動感が醸しだされています。陳澄波の画中にいつも、高く屹立して聳える玉山。いったい何を象徴しているのでしょうか。

1.作画地点
陳澄波の子孫の記憶によれば、この作品が描かれた場所は「嘉義郊外の酪農牧場」と思われます。古い地図に記載のある、市街地西南に位置する嘉義牧場のことです。画中の山々の描写をその裏付けとすることができます。その場所から東を望むと、前景の大武巒山が左に移動して見え、後方の玉山山脈と垂直に重なることはありません。

2.太子楼
大型家屋の三角屋根中央に小さな屋根が突き出した特殊構造、俗に「太子楼」(越屋根)と言われる換気口です。このような建築様式は「菸楼」(タバコ製造のための建物)や穀物倉庫など、乾燥した風通しのよい環境が必要な建物によく見られます。陳澄波の作画地点は酪農牧場なので、この建物はおそらく乳牛の畜舎でしょう。

3.牧場の柵
画面右側の道の両脇にある、木材と縄で作られた柵は、牧場の家畜が逃げないように設置されたものでしょう。日本統治時代、台湾でも牛乳を飲む習慣が徐々に広まり、日本の業者が乳牛の飼育法や搾乳の技術を台湾に持ち込みました。それに伴って、牛乳を専門に生産する牧場も各地の大都市郊外に建設されました。

4.竹管仔厝
家屋の屋根を覆うようなカヤと、「山牆」(破風)のうえに格子状に組まれた竹。かつては台湾の田舎でよく見られた「竹管仔厝」です。硬く太い竹で屋根の小屋組み、桁や梁をこしらえ、細い竹で壁を組んでから漆喰を塗ります。こうした簡素な作りの家は台湾のお年寄りに共通する思い出です。

5.石臼
とても重そうで口の広い道具は、おそらく石製の「舂臼」か「磨盤」でしょう。前者は精米に、後者は「米漿」(米で作った飲料)や米粉を作るのに使われました。台湾では古くから米を主食としており、米穀を処理するために作られた様々な道具類も農村風景の特色となっています。

6.女性
「大襟衫」(当時の庶民の衣服)を着て、髪を高く結った女性が、石臼の前にしゃがんで黙々と作業をしています。この時代の台湾社会では、女性が家庭を支える大黒柱的存在で、家事はもちろんのこと、いろいろな仕事もこなしていました。この絵に描かれている養鶏や洗濯、米搗き、子供の世話……一般的にこれら全てを女性が一手に担っていました。

7.養鶏
伝統的な暮らしを送っていた頃は、田畑の耕作のほかに副業を行う農家も多く、家畜の飼育が一般的な副業でした。養鶏は往時の平埔族(台湾の平野に暮らす原住民族)の暮らしでよく見られました。18世紀初頭の『諸羅県志』には、杵と臼を使う人の傍らで米粒を啄ばむ鶏の絵図が収録されています。

図3 : 日本統治時代の台湾畜産株式会社の牧場柵。台湾畜産株式会社,『台湾畜産株式会社十周年誌』(台北市:台湾畜産株式会社,1930),前置p.4

図4 :日本統治時代の台湾畜産株式会社の牧場柵。台湾畜産株式会社,『台湾畜産株式会社十周年誌』(台北市:台湾畜産株式会社,1930),前置p.4

新しい様式の建物が立ち並ぶ市街地、その隣に立つ木造家屋や伝統的な店舗がおもしろい対比をなしています。建物周囲に穏やかに降り注ぐ陽光で、あたり一面が暖かな黄色に染まっています。柔らかい陽射しを浴びて、画中に描かれた全ての景物も温もりある愛らしい色となっています。近景の大木が枝を広げ、路上の人たちに木陰を提供しているかのようです。目を閉じて陳澄波の絵の世界を歩いてみれば、この土地の温度に触れることができるかもしれません。

1. 新高写真館
1927年、嘉義に来て創業した写真家・方慶綿氏がこの街角の写真館を買い、旧店名の「新高写真館」をそのまま店名としました。方氏は山岳写真家として知られ、玉山や阿里山、八通関山などを踏破しました。方氏の作品は、往時の台湾山岳地帯の自然や文化を写真として留め、歴史的に貴重な記録となっています。

2. 「左側通行」の立て札
「左側通行」は日本政府が台湾に持ち込んだ近代的な交通ルールです。総督府は路上の立て札や交通整理をする巡査、学校教育による指導など、様々な手法でこの政策を民間に根付かせるべく積極的に推進しましたが、その効果には限界がありました。戦後、台湾では中華国民政府の法令に従って、右側通行に改められました。

3. 永利商店
2階建ての建物の入口に緑色のアーチがあります。その上に看板があり、立体的な文字で「永利商店」と記されています。この店は、各種金属素材や機械工具を専門に売る店でした。もしお時間があれば、陳澄波の絵に描かれた嘉義市内の興中街と中正路の十字路付近を訪れてみてください。画中の景物の中で唯一現存するのがこの建物です。

4. 豊茂金物商
ひと際大きな看板に「豊茂金物商」という文字が見えます。この建物は嘉義の名士・羅茂松氏とその一族が経営する企業の店舗で、1930年代に事業規模を拡げ、高雄にも支店を出しました。鋼鉄建材や各種金属の売買のほか、北社尾に工場も建設し、石綿を使った煙突や鶏舎の金網などを製造していました。

5. 嘉義市の新しいランドマーク
3階建ての鉄筋コンクリートの建物は1934年に落成しました。この建物は豊茂商店の事務所で、当時の嘉義ではかつてないほどの都会的な建築物でした。陳澄波が描く道の風景画においては、現代文明がもたらした景観改造の成果に、いつも注意が払われています。この斬新なデザインの建物が、陳澄波を作画に駆りたてた主な理由かもしれません。

6. デッサン
陳澄波はこの絵の風景を描くために、少なくとも3枚の鉛筆スケッチを残しています。これらの絵を比較してみると、縦に長い紙を使い、右側の大木を
消すなどして、画家が視点を移動させようと試みていたことに気づきます。変わらないのは、常に背景の山々の配置に気を配っている点と、前景の人物たちの親しげな様子です。

7. 亭仔脚(tîng-á-kha)
「騎楼」は中国南方や東南アジアで流行した建築様式です。高温多雨の地域では、商店前の通路を歩けば、雨や陽射しを避けられるようになっています。日本統治時代の嘉義市内で進められた、近代化に向けての建設工事では、「亭仔
腳」(騎楼)の設置も政府の法令に盛り込まれたことから、「騎楼」はにぎやかな市街地でよく見かける景観の一つとなりました。

8. 修復における倫理
陳澄波の多くの油彩画と同様に、この『嘉義の町』も修復されたことがあります。左下角の地面の色が大きく剥落していましたが、主導した木島隆康教授の美術品修復における倫理的原則に基づき、本来使われていたものに近く、可逆性のある油彩を使って修復され、陳澄波のタッチと修復跡は違和感もなくしっくりとなじんでいます。

図3 : 盧添登編纂,『穿越時空玉見您』(水里郷:玉山国家公園,2010),p.86。

図4 :嘉義市役所,『嘉義市制五周年記念誌』(嘉義:嘉義市役所,1935),前置きp.22,「本島人街」。

南国のまぶしい陽光のもと、生い茂る大木が道行く人々に日影をもたらしています。山積みの果物や氷菓子を売る屋台もあり、熱帯に位置する島の焼けつくような暑さが伝わってきます。着物にチャイナドレス、洋服姿。文化的背景を異にする女性三人が、路上ですれ違っていきいます。少し背を丸め天秤棒を担ぐ労働者の姿は、この土地でよく見かける素朴な景色です。静かで穏やかに見える午後の「西薈芳」から、各々の秘められた呟きが低くもれ聞こえてきます。

1. 西薈芳
「薈芳」とは、「香りの集まる地」という意味で、当時は酒楼(酒を供する飲食店)の店名によく見られました。酒楼は名士が集う場所で、台湾風料理の実験場でもありました。現在の台湾は、見た目も様々、来歴も雑多な飲食文化で知られていますが、多くの料理の起源は日本統治時代の「酒家菜」まで遡ることができます。

2. 日本統治時代の西門町
史料に記載のある「西薈芳」の住所と古い地図を照らしあわせてみると、この作品を描いた地点と視点が確認できます。日本統治時代、西薈芳が位置した「西門町」は「遊郭」があった場所で、酒楼が軒を連ねていました。嘉義の木材産業が盛んになるにつれて、この一帯の娯楽産業も繁栄しました。

3. 地図が語る「絵画」
1枚の地図は、この絵に関するさらに多くの事を伝えてくれます。1936年に発行された「大日本職業別明細図」には、西薈芳の斜め向かいにある「嘉林商会」が記されています。中景にある緑色の看板はこの店のものです。また、大木の影が西から東に伸びていることから、作画時間は午後と推測できます。

4. 「氷旗」
白地に赤い文字、青い波模様が入った日本の「氷旗」は、台湾風の「屋台車」につけられました。庶民の暮らしに溶け込んだ文化の一つとも言える、ささやかな風景です。「かき氷」は日本統治時代に持ち込まれた飲食文化の一つで、近代的な製氷工場が設立されると、氷菓子を売る屋台も嘉義の街角に現れるようになりました。

5. 広告の看板
高い場所に設置された異なる色の看板は、おそらく何かの共同広告でしょう。中ほどの二つに「医院」という文字がはっきりと見えますが、このうちの1軒は総爺街にあった「益生医院」でしょう。一番左側の看板は、嘉義の著名な医師・林淇漳の「長春医院」とおもわれます。

6. 鉛筆描きのデッサン
陳澄波のデッサンの中に、現存する油彩画の下描きが何枚かあり、画作を理解するための手がかりが得られます。このスケッチを見ると、『西薈芳』の景物の配置に、完成作品とは明らかに異なった箇所が見られます。左側の家屋も意図的に高く描かれ、比率的にかなり特殊な距離感が演出されています。

7. 芸旦
窓辺に見える女性らしき姿は、酒楼で歌ったり、客をもてなしたりした「芸旦」でしょう。社会的地位は低かったとはいえ、芸旦の多くは教養が高く、日本統治時代の西薈芳にいた「彩雲」という嘉義の名妓は、玉山の風景を詩に詠んだり文人と唱和するなど、文壇でも名を知られる存在でした。

図3 : 第二次世界大戦後期に入隊することになった台湾人の青年らが、嘉義の「美人座料理亭」に集い、送別会をしている場面。日本統治時代の飲食店の様子がこの写真から想像できる。写真:蔡栄順編纂『嘉義写真・第五輯』(嘉義市:嘉義市文化局,2013),p.115。

図4 :1937年に撮影された古い写真。背景の広告看板に「嘉義市実業案内」とある。画中に描かれた看板と類似のものだろう。
写真:房婧如等編,『歳月-嘉義写真』(嘉義市文化局,2000),p.87より。

大喝采を巻き起こす祭典の隊列、高蹺(竹馬に似た歩行用具)の演者たちの生き生きとした姿、誰もが目を大きく見開いて、祭りの見せ場を一つたりとも見逃すまいとしています。出し物を取り囲む群衆が興奮気味に四方を見回している間も、画家は視線を画用紙に落として素早く筆を走らせます。
ラフな鉛筆画に水彩を用いたシンプルな着色で、祭典の情景が描かれています。スケッチブックを手にして人波に分け入った陳澄波は、1933年に行われた「城隍遶境」に参加しただけでなく、その光景を描いた貴重な絵図を故郷のために残してくれました。

1. 陣頭
廟の周囲を練り歩く隊列には、「芸閣」と言われる山車のほかに、様々な「陣頭」も加わります。陣頭は台湾ならではの伝統文化の一つで、祭りの隊列の見どころでもあります。一般に陣頭の芝居や演技はごく単純なものですが、その種類は複雑を極めます。画中の二人は「熱鬧陣」の演者で、主神をのせた神輿が来る前にその場をにぎやかに盛り上げます。

2. 布馬陣
状元帽をかぶり、鞭を手にした男性が馬の頭のついたかぶりものを肩に掛けています。傍らには従者の姿も見え、台湾の伝統的祭典で上演される「布馬陣」だとわかります。この種のコミカルな芝居の主人公は馬術が苦手な状元や地方の役人が多く、主役とお供の滑稽な様子が観衆の笑いを誘います。

3. 金花
帽子の両側に立てられた飾り物は「金花」です。この帽子を見れば、この人物が新しい状元(科挙の首席及第者)だとわかります。皇帝より賜った金花を帽子に挿し、誇らしげに町を練り歩く状元は、民間の芝居によく登場します。「状元遊街」を主題とする物語から、「布馬陣」でよく上演される演目が派生的に誕生しました。

4. 高蹺
「迎神賽会」(廟の祭典の一つ)には多種多様な陣頭が参加します。他との違いを出したければ、「踩高蹺」(竹馬に似た歩行用具を使った陣頭)がいいかもしれません。一般に「踩高蹺」は単独で行われる陣頭で、画中の二人の演者は演劇的な表現を重んじる「文蹺」です。おそらくこの二人は「布馬陣」の扮装や芝居を取り入れて、観衆の注目を集めようとしたのでしょう。

5. 書画展覧会
毎年、「城隍遶境」の時期には大勢の観光客が嘉義を訪れ、祭典に合わせて様々なイベントが開催されます。「書画展覧会」もそのうちの一つです。1933年に行われた城隍遶境では、中国から帰国した陳澄波もこのような展覧会に出展し、完成後間もない上海の風景画を嘉義の人々に披露しました。

6. 淡彩画
陳澄波は油彩画で名を知られる画家ですが、他の画材を用いた作品も多数あり、それには408点の淡彩画も含まれます。これらの作品は1930年代初期に次々と制作されたもので、上海で働いていた頃に完成させた裸婦画がかなりの部分を占めています。このほかにも、陳澄波は淡彩で様々な人物群像を好んで描きました。

赤色、黄色、橙色、緑色…にぎやかな祭りの隊列がキャンバスに入り込み、カラフルな色の塊へと移り変わっていきます。雑多に交わる線からも、街を埋め尽くす人の群れや打ち鳴らされる打楽器の喧騒が聞こえてくるようです。
1929年から上海で教職に就いていた陳澄波が夏休みに帰郷すると、ちょうど毎年8月初めに開催される「城隍遶境」の時期でした。陳澄波にとって、この民俗文化の盛典は故郷を代表する風景であり、見逃せない創作テーマの一つでもありました。

1. 城隍
町の守り神である「城隍」は冥府の法を司る神でもあります。清代の台湾では、新しい府や県、庁が成立する度に城隍神が祀られました。1715年に建立された嘉義城隍廟もそのうちの一つです。日本による統治が始まってからは、前代政府により建立されたこの廟は民間で維持・管理されるようになり、今もなお嘉義の人々を見守っています。

2. 祭典
「迎城隍」の祭典は台湾各地で盛大に行われます。嘉義で行われる城隍廟の祭典は、地元の紳商の提議により1908年から開催されています。台北の霞海城隍廟で毎年開催される遶境(巡礼)の儀式に倣い、地方の活性化を目的としています。日本統治時代中期、嘉義の木材業が急成長するに従って、木材商も祭典の有力な後援者となりました。

3. 遶境
「遶境」とは、その廟の信徒が神像を神輿にのせ、周辺地域を巡行する宗教活動のことです。民間では、神様が巡視することによりその場が浄化されて厄払いでき、疫病の流行も防げると考えられています。伝統が重んじられていた時代、「遶境」は地域住民が総動員される一大行事でした。この行事に地域が一丸となって取り組むことにより、住民たちの地元意識やローカルアイデンティティも強化されたのです。

4. 盛況
嘉義城隍廟の遶境は年々盛んになり、1930年代になると、台湾各地からこぞって参加する人々で十万人に達するほどでした。祭典の規模が大きくなるにつれて隊列による出し物のレベルもあがり、昼間の「芸陣」による技比べ、夜の「館閣」による演奏と多くの人々が足を止めて見物します。

5. 芸閣(芸陣/館閣)
数人で担ぎあげる高い台車は各種の祭典でよく見られる「芸閣」です。その多くは商工団体が出資して建造したものです。このような出し物は伝統的な芝居や民間に伝わる故事を主題として、人(多くは芸旦か児童)が扮装しました。日本統治時代の迎神賽会では芸閣のコンテストが行われることも多く、飾りつけもますます華やかになっていきました。

6. 旗幟
群集の後ろに高々と立てられた旗は神の旗標か商店の広告でしょう。大勢の見物客が押し寄せる「遶境」はめったにない祭典で、企業も商店もこの時ばかりと広告用の幟や器具を製作し、祭りの隊列に参加します。自社製品の宣伝をしながら、祭りの隊列に華も添えます。

7. 斗笠
日本統治時代、嘉義城隍廟の「遶境」はたいてい旧暦の8月3日か4日に行われました。季節はすでに夏の終わりですが、北回帰線上はまだ気温が高く、汗が滴り落ちるほど。朝から晩まで町を練り歩く人たちにとっては耐え難く、強烈な陽射しから身を守るために、画中の男性たちが斗笠(笠)をかぶっているのも不思議ではありません。

図3 : 1915年に行われた祭礼行列の芸閣。

母親が子供の手を引きながら、ゆったりとした足取りで坂道を下りて行きます。もう少し先に行くと小路の角を曲がって、二人の姿は見えなくなるでしょう。手前に見える、天秤棒を担いだ男性はしっかりとした歩みで坂を上り、もうすぐ母娘とすれ違うところです。遠方に目をやると、畑に平行に並ぶ畦と農作物が整然とした線で描かれており、せっせと働く農民の姿もあります。絵を見る私たちまでが、和やかさ漂う田園風景の小路を歩いて、梢を揺らすそよ風を感じられるような気がします。

1. 日傘
洋傘は明治維新以降に日本へ伝わり、流行の舶来品の一つになりました。洋傘をさす女性像は、近代の世界美術史において、それぞれの絵画のコンテクストにより異なる意味を持ちます。陳澄波が描いた台湾の風景画では、灼熱の気候という風土的特徴を示すのにも使われています。

2. 笠をかぶり天秤棒を担ぐ労働者
笠をかぶり天秤棒を担いだ労働者は、陳澄波が描いた田舎の風景にしばしば登場します。このような身なりの人を「庄跤人」(tsng-kha lâng)と言い、当時の台湾社会で日常的に見かける一庶民でした。この庄跤人たちは、陳澄波のある種の心情を象徴するかの如く、画家がふるう絵筆に合わせて、絵の中の土地をくまなく歩き回りました。

3. 曲がり道
陳澄波の風景画には、近景の曲がり角を利用して観る者の視線を遠方へと導くような、こうした構図を用いた作品が何点かあります。小道が曲がり角で消えることによって、神秘的な雰囲気がかもし出されます。道に沿って歩いていった、塀の向こうは何処に通じているのでしょう。

4. 側溝
長い側溝が道沿いに流れていきます。この側溝はおそらく衛生上の理由から掘られた排水溝でしょう。日本統治時代のはじめ、日本政府により台湾にも排水設備が導入され、後に下水道の設置も法令で定められました。このどうということのない普通の側溝が、衛生環境の改善に役立ちました。台湾の近代化にとっては重要な建設工事だったのです。

5. 地点と年代
陳澄波が残したこの鉛筆スケッチは『田園』の草稿です。最終的に完成した油彩画には、制作年が記されていませんが、この風景デッサンを見れば、嘉義近郊の丘陵で写生をし、1932年7月以降にこの作品を描いたことがわかります。

6. 往時の写真
「陳澄波先生謝恩会」と題されたこの古い写真は、陳澄波と台湾人グループの記念写真です。壁には、嘉義出身の医師・黄嘉列が贈った2面の扁額がかけられ、『田園』は皆の真後ろにあります。この謎めいた「謝恩会」の背景には、どのような物語があったのでしょうか。

図3 : 『満載而帰』(大収穫),画布油彩,72.5×90.5cm,1936。

図4 : 嘉義(1)-SB09:32.7.8 1932 紙、鉛筆 12×18.2cm

広大な大地のいたる所に溢れる緑色が、樹上で旋回してふっくらした翼へと形を変えています。明るい黄色、若草色、陰鬱な、明快な、深浅の異なるグラデーションとなって重なる緑が、華やかな組曲を奏でています。遠方の建物は他とは違う青緑で彩られ、絵の中に隠された宝石のように揺らめきながら微かな光を放っています。
緑の波涛が地平線の青い空と白い雲へ、とうとうと連なっています。故郷の風景を味わう陳澄波の喜びが、この豊かさに満ちた美しい一枚となったのです。

1. 2枚のデッサン
陳澄波が残した2枚の鉛筆デッサンは、この作品と深い関わりがあります。この3枚の絵を比べてみると、デッサンの段階で遠方の工場の煙突や建物に気を配っていたことがわかります。もともとは前景に人物を描き入れるつもりだったのに、油彩画には入れないことにしたようです。

2. 作画地点
2枚あるスケッチの1枚には「諸羅の町を望む」、もう1枚には「嘉義公園」と記されています。前者は写生の主題、後者は作画地点です。今日の嘉義市内には高層ビルが林立し、視界も限られていますが、陳澄波の作品を通して、高台にある公園から嘉義市を見渡せた、当時の風景を想像することができます。

3. 煙突
市街地の外れを見ると、煙突から立ち上る黒い煙が空に霧散しています。これは、近代化されつつある嘉義市を描いた風景画です。日本統治時代中期、台湾各地の都市は急速に工業化されました。嘉義市の西側にも製氷工場やレンガ工場、電灯会社など、新式の工場が建設されました。高く聳える煙突もそれに伴って、市街地の空に現れました。

4. 田畑
1934年、陳澄波がこの風景画を描いた頃はまだ、嘉義公園と市街地の間に広大な農地がありました。年代的にほど近い時期の『嘉義市区計画平面図』を見ると、「東門円環」より東側にある大部分の道路はまだ計画中で、東門公学校と嘉義農林学校は広々とした田畑に囲まれていました。

5. 豊茂商店
黄色の壁に少しばかり緑色を帯びた建物は、嘉義元町にあった「豊茂商店」
でしょう。1934年の作品『嘉義の町』でも、同じように黄色と緑を用い、嘉義で最も高かった3階建ての建物が描かれました。市街地を鳥瞰したこの風景画においても、陳澄波はこの特色あるランドマークを意図的に突出させています。

6. 大通り
電柱が立ち並ぶ近代的な道路が郊外の田畑を通り、市街地まで伸びています。これは日本統治時代の「大通り」で、今日の中山路です。日本統治時代初頭、この「大通り」は、噴水池円環から「東幅散」に向かう3本の主要道路の一つで、市役所などの重要な機関が道沿いにありました。現在でも嘉義市内の交通の要です。

図3 : 諸羅の町を望む-SB13:34.8.21 1934 紙、鉛筆 24×18cm

図4 :嘉義公園(2)-SB13:34.2.28 1934 紙、鉛筆 24×18cm

洗濯
制作年不詳,画布油彩, 23.9×33.7cm

浅瀬の岸辺にしゃがみ込んだ女性たちが、力をこめ衣服をもみ洗いしています。働く姿が鏡のような水面に、映し出されています。村での出来事や、家でのあれこれ。肩を並べて洗濯しながら、川の片隅で情報を交換しているのでしょう。傍らには母親について洗濯場に来た子供もいて、川に入って遊ぼうとしています。
水辺で洗濯をする場景は、台湾の懐かしい記憶の一つです。この絵を見ていると、岸辺で談笑する声に交じって、バシャバシャとはねる水の音が聞こえてくるようです。

1. 水辺での洗濯
地下水をくみ上げる井戸や水道設備がまだ普及していなかった頃、洗濯といえば川や湖、用水路が頼りでした。その昔、女性たちが水辺に集まって衣服をもみ洗いする姿は、台湾の田舎の至る所で見られました。嘉義の製材工場にあった大きな杉池でも、洗濯をする光景が見られました。

2. 洗濯しながら…
「男は外、女は内」という伝統的な観念の中にあって、家に留まり家事をするのが女性に与えられた仕事でした。しかし、皆が集ってする洗濯は、往時の台湾人女性たちが築いた大切な交流の場でした。洗濯を外出の理由にして、ご近所さんたちに会い、おしゃべりを楽しむことができたのです。

3. 洗濯─伝統的手法からの近代化
日本統治時代の台湾では、急激な人口増加と産業の急成長に伴い、水質汚染が日増しに深刻となり、近代的な公衆衛生の観点から、水辺での洗濯は悪習で改めるべきだと批判されるようになりました。ちょうどその頃、西洋風の「洗濯屋」が町中に現れ始め、その後のクリーニング業の起源となりました。

4. 台湾の奇景
井戸端での洗濯が一般的だった日本人にとって、台湾人女性が川岸に集って洗濯をする光景は、一種の奇観でした。台湾の風物の数々を紹介した「写真帖」(写真集)には、水辺にしゃがみ込んだ女性たちが肩を並べて洗濯する様子を撮影した写真が、植民地ならではの光景として掲載されています。

5. 洗濯が主題の画作
水辺での洗濯は、往時の台湾独特の光景だったことから、自然と画家たちの創作テーマの一つになりました。李石樵や李梅樹、藍蔭鼎など、美術史に名を残す大家も同じような場景を描いています。いずれの作品にも、故郷とその地で暮らす人々、郷土の生活風景への思いが表現されています。

6. ピサロ『洗濯をする女』
西洋美術の作品にも、洗濯する女性を主題とした絵画が多数存在します。一例を挙げると、フランス印象派の大家ピサロ(Camille Pissarro)は、田舎の女性たちが洗濯をする場面を好んで描きました。陳澄波が収集していた絵画の絵葉書の中にも、ピサロの絵葉書が1枚あります。女性が身をかがめて、水桶に入れた洗濯物をもみ洗いする様子が描かれています。

図3 : 下田将美,『南島経済記:附・朝鮮』(東京市:大阪屋号書店,1929),p.129後の綴じ込み。


図4 :李梅樹,『河辺清晨』,画布油彩,91x116.5cm,1970。

北回帰線立標
ca. 1921-1923, 紙本水彩, 24×28.5cm.

縦貫鉄道の傍らに立つ方錐形の標塔。高々とそびえる記念碑は国家の繁栄を象徴すると同時に、南国台湾の特色がわずか2行の科学的な数値へと濃縮されています。
「北緯23度27分4秒」。この数値の下でフォルモサ(麗しの島)といわれる台湾の豊かな多様性が育まれてきたのです。そうして生まれた、樹木茂る山々や紺碧の海、明るい日差しが降り注ぐ原野─陳澄波の絵画には北回帰線上に位置するこの島の、ありとあらゆる風景が無上の色彩美で表現されています。


1. 二代目の北回帰線標塔
1908年、台湾総督府は縦貫線の全線開通を祝して、縦貫線と北回帰線が交わる付近に記念碑を建立しました。それ以降、この標塔は嘉義県内の名高いランドマークの一つとなりました。初代の標塔は風害により損壊してしまいましたが、1915年に建てられた二代目の標塔が、陳澄波の作品に描かれている方錐形の標塔です。

2. 標塔に刻された文字
この北回帰線標塔には「北回帰線立標」と記されています。文献資料によれば、標塔の文字は本来「北回帰線標」となり、その下には経緯度が2行に分けて小さな字で記されているはずです。近代絵画においては、各々の画家が重んじる表現の細部にはそれぞれ異なる考えがあり、このような省略がよく見られます。

3. 標塔建立の目的
当時、縦貫線の建設は世紀の大工事とされ、植民地台湾における建設工事の成果を代表するものでした。日本政府が北回帰線上に記念碑を建立することを選んだのは、経緯度測量の精確性によりその技術力を世界へ知らしめると共に、南方へと拡大し続ける日本帝国の実力が、地理学上重要とされる限界を突破したことの象徴でもありました。

4. 陳澄波と水崛頭公学校
陳澄波は1920年に嘉義公学校から郊外の水崛頭公学校に転任しましたが、北回帰線標塔は嘉義市とその学校の間に位置します。つまり、この巨大な記念碑は、陳澄波が両地を行き来する際に必ず目にした景色の一つでした。この作品もその頃に制作されたものかもしれません。

5. 陳澄波と「現代性(モダニティ)」
日本統治時代の台湾では、機械、電気、鉄橋など先進的な事物が人々の暮らしに次々と出現しました。これら「現代性(モダニティ)」を象徴するモチーフはずっと、陳澄波が用いた絵画表現を強調する大切な要素でした。一種の近代的な奇景である北回帰線標塔もまた、そうした理由で陳澄波の創作テーマの一つとなったのかもしれません。

6. 水彩画
1913年、18歳で台北の総督府国語学校に入学した陳澄波は、水彩画家の石川欽一郎より指導を受け、西洋美術を学び始めました。現存する作品を見ると、この時代は主に水彩画を描いていますが、1924年に日本へ留学して以降は、しだいに油彩画の世界で自らの道を確立していったのです。

7. 牛車
家畜に牽引させる車(一般的には牛車)は、近代以前の台湾の農村を代表する風景の一つでしたが、交通インフラが発達した日本統治時代、牛車の役割もしだいに機械や車輌に取って代わられる事となりました。この近代的モチーフをテーマとした作品では、牛車をアクセントにすることで、両者の対比を作り出す意図があったのかもしれません。

図3 : 1918年発行の『台湾拓殖画帖』に附された二代目標塔の写真では、標塔上の文字(経緯度の数値「北緯23度27分4秒」と「東経120度24分46秒」を含む)や細部の構造まではっきりと見て取れる。陳澄波の作品と比べると、細かな箇所にも多くの違いが見られ、非常に興味深い。

図4 : 水牛ト牛車/台大日本統治時代絵葉書

夏休みに帰国した陳澄波は、ふたたび嘉義市郊外のあの野原―北回帰線標誌(記念碑)のある場所へ行ったのかもしれません。数年前にも水彩で標塔を描きましたが、この日は前とは違う画法で新しく生まれ変わった標塔を描こうと、この人造的な現代の奇景に再び挑んだのです。ダビデとゴリアテの戦いのように、巨大な標塔の前に立ち、どの色を使おうかと絵具箱を覗き込んでいたのでしょう。陳澄波はどんな絵具で相手を手なづけたのでしょうか。

1. 三代目の北回帰線標誌
1923年、皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が植民地台湾の視察に訪れました。盛大な催しとなる「東宮殿下の行啓」を迎えるために、総督府は北回帰線標誌を石造りに建て替えました。三代目の標誌は1935年までありましたが、始政40周年記念博覧会の際に再び建て替えられました。

2. 先端の球体
標塔の先端の球体がこの記念碑の特色です。三代目の標塔は皇族を迎えるために建立されたせいか、この球体も日本の国旗の「日の丸」を連想させます。
古い写真に比べて、この絵の球体はかなり大きく描かれていますが、おそらく意図的に誇張して表現したのでしょう。

3. 標誌の描写
古い写真によれば、三代目標誌の正面には「北回帰線標」という文字と、建て替え時に測量した経緯度が記されていますが、こうした細部は全て簡略化されています。また、標誌の実際の大きさや、遠近感と立体感も、画作と実景ではかなり違いのあることがわかります。

4. 油彩画
1924年、陳澄波は東京美術学校に進学し、主に油彩画を描くようになりました。この風景画は、油彩画を学んでいる頃に描いた早期の作品です。数年前に描いた北回帰線標塔の水彩画に比べると、この作品は油彩を使っているため、ほの暗い空や緑濃い草むらなど、より豊かで大らかな表現が見られます。

5. サイン
陳澄波は生涯の各時期により、好んで使用したサインが異なります。この作品は、右下角にアルファベット3文字を重ねた「C、T、H」というサインがあります。これは「陳澄波」の日本語発音「チン‧トウ‧ハ」のイニシャルです。この特別なサインには独自の工夫が感じられます。

6. X線撮影による分析
X線撮影を利用した絵画の分析調査は、美術史研究にとって極めて大きな助けとなりました。この技術によって、油彩の背後に隠された様々な示唆を得ることができます。この作品のX線写真を見ると、上半部分に修正が加えられていることがわかります。最初の構想では、この空と雲はどのように描くつもりだったのでしょうか。

図3 : 陳澄波は三代目の北回帰線標誌の写真つき絵葉書を所有していました。正面の下方には、小さな文字で経緯度「北緯二十三度二十七分四秒五一」と「東経百二十度二十四分四六秒五」が記されています。写真と絵を比較すると、実際の北回帰線標誌は立体的な三角柱ですが、陳澄波はこの立体の形状を精確には表現していないこともわかります。このほか、標誌の先端構造の大きさも、かなり誇張して大きく描かれています。

図4 :三代目北回帰線標誌の絵葉書を見ると、人と標誌の大きさの違いがわかる。
(嘉義)北回帰線標塔(嘉義より三里)
台大デジタルアーカイブス日本統治時代の絵葉書

木材工場
1921, 紙本水彩, 18.2×23.5cm


レールや工場、煙突、ワイヤロープ、コンクリート製の巨大な建物と轟音を響かせる機械──「東洋一」と謳われた嘉義の製材場には、近代化を象徴するような奇観の数々が集結していました。1920年代初頭は嘉義全体が林業を主要産業として発展し、しだいに豊かな大都市へと成長を遂げたのです。嘉義近郊の製材場はその発展を促す動力源でした。
陳澄波の少年時代に嘉義は大きく変化しました。この水彩画は歴史を物語る証の一つと見なせるでしょう。

1. 製材工場
3階建ての鉄筋コンクリートの建物は1914年に竣工した製材室です。杉池で熟成された原木は搬送用のローラーコンベアで2階に運ばれ、裁断して木材にし、乾燥などの工程を経てから民間業者に売り渡されました。この建物は1941年に発生した地震で損壊してしまったため、総督府により二代目の製材室が建造され、戦時中も製材工場として稼動し続けました。

2. 動力室
1913年に建造された動力室は、嘉義初の火力発電所と鉄筋コンクリート製の建築物でした。この動力室は製材所の機械だけでなく、周辺の北門地区にも電力を供給していました。1931年から製材所で使用される電力は嘉義電灯株式会社から供給されることになり、動力室は配電所とされ、発電所としての役目を終えました。

3. 鋸屑室
製材の工程中に出た木屑は鋸屑室に貯蔵されてから、発電の燃料として動力室に搬送されました。木屑の搬送には、画面手前に見える、鋸屑室に続く2本のローラーコンベアが使われました。現在は鋸屑室の下半分ほど、RC構造の基礎が残されているのみで、その上にあった木造倉庫はもうありません。

4. 煙突
動力室の蒸気ボイラが轟音を立てて稼動すると、灰黒色の煙が排気ダクトに流れ込み、120フィートある鉄製の煙突から煙が吐き出されます。高々と聳える煙突は、早期の嘉義の近代化を示す奇景の一つで、町の至るところからその姿を目にすることができました。この煙突は1965年に地震で倒壊してしまい、現在は排気ダクトの一部が残されているのみです。

5. 天井クレーン(起重機)
高大な三角形の骨組みは米国Allis-Chalmers社のクレーン(起重機)で、嘉義製材工場を代表する眺めの一つです。貯木池の傍らに立つ2台のクレーンは軌道に沿って平行移動します。クレーンの上端はワイヤロープで繋がっており、このワイヤロープ上を往復するフックで木材を搬送しました。

6. 乾燥室
カタツムリのような長方形の建物は1914年に建てられた乾燥室で、現存する台湾最早期の蒸気乾燥設備です。室内に設置された鉄製の蒸気管から熱風を送り、軌道上の木材を出口に向かってゆっくりと移動させながら、乾燥と水分の調節を行います。余分な水気は屋根にある2本の煙突から外に排出されます。

7. 裏面の文字
1921年8月、欧州各国訪問を終えられて、帰国の途についた裕仁皇太子殿下の船が台湾海峡を通過したその日は、この水彩画が完成した日でもありました。陳澄波はこれを記念して、絵の裏にそのことを書き留めています。日本統治時代、皇族方の動向は常に人々の耳目を集めていましたが、台湾も例外ではありませんでした。

図3 : 製材工場のローラーコンベア。出典:嘉義街役場,『大嘉義』(大阪市:英進舍工場印刷,1929)。

図4 : 作品の裏面に二つに分けて書かれた文がある。以下に中国語訳を附す。
東宮殿下御召鑑は本日八月弐拾八日正午に台湾海峡に入らせられ二十九日日出む頃、此節台湾の沖合を御通過あらせらるゝを以てこの日は研究記念とて写生せる者なり
10. 28/8.
あまり紫色ヲ図るへき者也、多少もう少し
紫色にも変化があるたらう、熱中故ますます

製材工場
1946, 画布油彩, 91×116.5cm

この油彩画はセピア色の古い写真の中ですっかり色褪せていますが、画中の風景は今なお鮮明で生き生きとしています。起重機の滑車が勢いよく回転する傍らで、長い竿を手にした労働者たちが、池に浮かぶ木材と格闘しています。工場の敷地いっぱいに巨大な原木が積み上げられているのを見ると、終戦を迎えたばかりとはいえ、工場はずいぶん繁盛しているようです。
陳澄波は自身の絵画人生の初めと終わりに、嘉義の製材場を訪れて作画しています。比較しながら2作をよくご覧ください。何か変わったところが見つけられるでしょうか。

1. 貯木池
嘉義県の人々は広大な貯木池を「杉池」と呼んでいます。貯木池にはタイワンベニヒノキやタイワンヒノキなど、水中に沈むことのない一級品の木材が貯木されます。この種の木材は、水に浸けることで品質を保てます。原木を浮かべた池の水には洗浄力のあるアルカロイドが含まれるとされ、この付近の住民はいつも杉池で洗濯をしていました。

2. 二級品の原木
阿里山から製材場に搬送されてきた大量の原木は、検尺を行った後、それぞれの等級に応じた方法で貯蔵されていました。高価な一級品は貯木池に送られ、二級品は陸上貯木場に積み置かれて、買い手が現れるのを待つことになります。

3. 職人
長い竿を持ち、笠をかぶった職人たちが、貯木池の太い原木を竿で動かしています。製材場の敷地は広く、大型機械の補助があったとしても、やはり人力で大量の木材を搬出しなければなりませんでした。貯木池の原木を移動させるのはかなり危険な作業で、少しでも気を抜くと、池に落ちて命を落とす恐れもありました。

4. 起重機
固定式起重機がレール上を往復し、貯木池の片持ち梁にワイヤロープを垂れながら、池に浮かぶ巨木をいつでも運び出せるように準備しています。史料によれば、製材場にはシンボリックな固定式起重機のほか、蒸気機関で動く、荷重量3トンのドイツ製起重機もあったそうです。陳澄波が描いたこの機械がその起重機かもしれません。

5. 台湾省第1回美術展覧会
1946年10月、台湾はすでに中華民国政府に「省」として接収されていました。楊三郎や郭雪湖などの画家たちによる積極的な働きかけの結果、日本統治時代の「府展」に倣い、台湾省第1回美術展覧会が台北中山堂で開催されました。台湾の画壇で活躍する陳澄波も招きに応じ、初開催される省展の審査委員を務めました。

6. 所在不明の作品
1947年に勃発した二二八事件以降、陳澄波の名は一種のタブーとなり、またその画作も秘匿され、処分された作品すらありました。現存史料によれば、この作品は省展終了後、行政長官公署が購入し、蒋介石に進呈されたそうです。しかし、現在は所在不明となっており、写真が残されているのみです。

図3 : 1929年に出版された『大嘉義』にもその起重機の姿が見える。出典:嘉義街役場,『大嘉義』(大阪市:英進舍工場印刷,1929)。

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蘭嶼地區旅遊資訊

蘭嶼,在許多台灣人心中,是個遙遠的傳說。 當地的原住民-雅美(達悟)族,嚴守自古以來的傳統知識,過著樸實的生活,與台灣其他原住民族相較之下,並沒有大規模遷移,因此保留了最傳統的生活方式。至今,即使年輕一輩的人選擇外出工作、住水泥房,仍然有許多非常傳統的長輩選擇遵循傳統,過著與世無爭、與大自然共存的生活。 這次踏入蘭嶼土地,大概是旺季前夕吧,並沒有過多的觀光客,緩慢的生活步調反倒能細心品味在地生活。下飛機後,映入眼簾的便是充滿熱情與南島風情的國度。在這樣的環境,步調不由自主地慢了下來,彷彿暫時遠離了都市塵囂。沿著環島公路,不時能看到當地住民悠閒的坐著,彼此聊聊天、喝喝茶; 亦或是老人家坐在自家門口,曬曬太陽、發發呆,散發出來那與世無爭的生活態度,是都市的人們無法遇見的。甚至路過店家,他們會熱情的打招呼,並聊上幾句,交朋友的模式不正是如此。短暫幾天的旅行,卻是收穫滿滿,除了將美景盡收眼底之外,也體會到在現在的科技時代下,較缺乏的人情味。

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齊東詩舍

齊東詩舍官方網站: http://qidong-poetrysalon.nmtl.gov.tw/index.php 齊東詩舍臉書專頁: https://www.facebook.com/qidongpoetrysalon/ 詩是淬鍊的語言,寫詩、讀詩、以詩入歌是臺灣人的生活美學,也是文學的根本。文化部(前文建會)在2009年委請臺北市政府文化局修繕齊東街日式宿舍(濟南路二段25、27號)完成之後,前部長龍應台將此素雅的歷史建築命名為「齊東詩舍」,並打造成一個文學地景亮點。2014年7月,國立臺灣文學館開始營運管理並策畫展覽及文學推廣活動。 齊東詩舍做為詩的復興基地,所乘載的是濟南路上臺灣詩人的足跡,川流於「自立晚報社」的張達修、周棄子、司徒衛、杜文靖、 羊子喬、林文義、沈花末、向陽、 劉克襄、 陳斐雯……等詩人,並以報社為發表重要園地的《自立詩壇》、《新詩週刊》。而鄰近的成功高中及其宿舍,仍留有紀弦的餘韻,延伸至新生南路方向,則刻有詩人李瑞騰與李敏勇青春歲月的依憑。齊東詩舍的詩路,串起國立臺灣文學館「南館北舍」的美麗,也蘊涵著臺灣現代詩發展的底蘊。 齊東詩舍是都市發展的重要指標,走在詩意盎然的日式空間中,期盼民眾能細細感受歷史建築帶來的新生命及文學饗宴。

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Science Park Exploration Museum

Science Park Exploration Museum, established in 2007 by the Hsinchu Science Park Bureau, was originally a first generation standard factory until its conversion into a modern exhibit. The visitors will have a chance to explore the history and development of the Hsinchu Science Park and the impact that technology and innovation continue to have on all our lives. Would you like to know more about the park? Come and explore!

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和平島公園

「離島,不離島」是形容和平島最貼切的詞句。只需要轉個彎,越過一座70公尺的橋,就可以從擁擠的都市來到和平島。 五百萬年前浮出海面的和平島,原是三座孤立的島嶼,分別是桶盤嶼、社寮島、中山仔嶼。後來陸續建設與填海造陸,將三座小島連接起來組成和平島。而原本的中山仔嶼,就是「和平島公園」的所在處。 和平島,現以和平橋與台灣島相連。島上的海岸受強烈的海蝕及風化作用,形成了各種天成的地形景緻,是遊憩攬勝及教學的自然教室。 現代人馬不停蹄的忙碌生活常讓人迷惘,不如收拾簡單小行囊往和平島公園出發!說走就走,坐在沙灘聽海浪拍打岸上岩石的聲音、哼一首最喜歡的歌,三五好友隨興草地野餐,享受悠閒的漫島生活美學,Find your peace就是如此簡單。

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「Discovering Taiwan─Re-visiting the Age of Natural History and Naturalists of Taiwan」

“Discovering Taiwan” has two units. Unit One focuses on the research tradition of the naturalists in the beginning of the 20th century. During on-site field studies, the museum’s researchers recorded their research findings and brought back specimens and new knowledge that contributed to the museum’s collections. Unit Two introduces how specimens became cherished evidence of natural history research through organization, identification, and classification. They are an important source for scientific research. Specimens represent different species. Different specimens form a miniature version of our big nature, illustrating the evolutionary history of different species in nature. “Taiwan’s New Scopes” introduces the important naturalists and their findings in the 100- year history of the National Taiwan Museum. These naturalists worked hard to unveil the secrets of Taiwan’s nature. Thanks to them, we can appreciate the beauty of Formosa through different lenses. “The Past is the Future” means that the museum does not only bring visitors to the past, but they also lead us to reflect on the current and envision the future. People often think that museum collections are evidence of history being frozen in time. The appearance of the collections may stay constant. But people’s opinions about the collections change constantly. Therefore, they may have different meanings and values in different times. In the museum, the past is the future. This is why people never lose their interest in museums.

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